根本博中将
台湾は、支那大陸の福建省から南シナ海で180kmの距離にある島国であることは、みなさまご存知の通りです。
けれどその台湾について、ひとつ不思議なことがあります。
なぜ台湾本島は、支那共産党に攻められたなかったのでしょうか。
大東亜戦争当時の台湾は日本でした。
終戦後、その台湾には占領軍として蒋介石率いる支那国民党が入り込みました。
そのことが原因で、いまだに台湾は占領統治を脱していないという問題を引きずっている等々のお話は、以前、このブログでも詳しく述べた通りです。
ではなぜ、支那国民党が、最終的に蒋介石を含む中央執行部までが台湾に入り込んだかといえば、それは彼らが支那大陸から毛沢東率いる支那共産党との戦いに破れ、支那大陸を追われたからです。
そもそも支那大陸で日本と敵対し、日本と戦ったのは、共産軍ではありません。蒋介石率いる国民党軍でした。彼らは、日本を疲弊させようという米英の思惑に乗って軍事物資の支援を受け、その支援によって日本と戦っていました。
大東亜戦争終結後、日本は支那大陸から撤収し、支那大陸には、蒋介石率いる国民党軍閥が残りました。
そしてこの国民党軍閥と、毛沢東率いる支那共産党が熾烈な戦いを行い、蒋介石は敗退に次ぐ敗退となり、ついには支那大陸を追われ、台湾に逃げ落ちたのです。
なぜ蒋介石が破れたのか。
この点についてはあきらかです。
支那事変から大東亜戦争にかけて、米英は蒋介石の国民党軍に膨大な軍事物資を送り、彼らを後方支援していたのです。
理由は、日本を大陸に釘付けし、疲弊させるためです。
けれど米英の日本との戦争が終わると、彼らは薄情なものです。
米英は、いともあっさりと蒋介石率いる国民党への支援を打ち切ってしまったのです。
国民党は200万の大軍です。
蒋介石は、その兵を食わせなきゃならない。
ところが米英の軍事支援を打ち切られると、国民党は武器弾薬から食料まで欠乏してしまいました。
その一方で、新たに東亜戦線に参加したソ連が、それまで瀕死の体だった毛沢東率いる八路軍(共産党軍)に、軍事支援を行いました。
豊富な武器弾薬と装備を持つ共産党軍と、武器弾薬の支援がなくなった国民党軍。
勝敗は明らかでした。
蒋介石ら国民党軍は、支那各地で無惨な敗退をくり返し、最後の頼みとした福建省からも追われ、ついに支那大陸から追い出され、終戦後軍事占領していた台湾にその最後の本拠を移したのです。
戦後長らく、台湾の蒋介石国民党は、自分たちこそ支那本土における正当な政府であると主張し続けていました。
けれど、ベトナムや、チベット、トルキスタンまで攻め込んだ支那共産党です。
その支那共産党が、何故、台湾に残存した国民党勢力を掃討しなかったのでしょうか。
それは海が隔てていたからですか?
それにしてはおかしなことがあります。
台湾の領土は、台湾本土だけでなく、支那本土に密着した「金門島」も台湾領なのです。
金門島
金門島と、支那本土との距離は、わずか2kmです。
逆に金門島は、台湾本土からは270kmも隔てられている。
その金門島が、台湾領土なのです。
実は、この金門島で、国民党軍と共産党軍による激烈な戦いが繰り広げられました。
支那で中華人民共和国が建国宣言する2ヶ月前のことです。
戦いは、国民党軍の勝利となりました。
完膚なきまでの完全勝利です。
そしてこの戦い以降、支那共産党は国民党への追いつめ作戦(攻撃)を停止しました。
このため、台湾には、いまも国民党政権が残存しているのです。
けれど、ではいったい何故、それまで負け続けだった国民党が、この金門島の戦いで、突然、完全勝利するほどの強さを発揮できたのでしょうか。
それだけではありません。
この戦いは、破竹の勢いだった支那共産党軍に、国民党を攻める意欲さえも失わせてしまったのです。
共産党軍は、何をおそれたのでしょうか。
実は、ここにある日本人が深く関係しています。
その日本人は、「戦神」と呼ばれました。
そしてその日本人がいたからこそ、支那共産党軍は、金門島ひとつを陥(お)とすためだけに、どれだけの兵力の損耗をするかわからないと恐怖し、国民党軍に対する攻撃の手を停めてしまった。
これが歴史の真実です。
そしてこの真実の歴史は、戦後60年間、ずっと封印されたままとなっていました。
それが明らかにされたのは、平成20(2008)年のことです。
その日本人の名は、根本博(ねもとひろし)といいます。
陸軍中将です。
陸軍中将というのは、閣下と呼ばれる人です。
要するにとてつもなく偉い人です。
根本中将は、明治24(1891)年のお生まれで、幕末に二本松藩となっていた福島県岩瀬郡仁井田村(須賀川市)のご出身です。
仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校にあがり、陸軍士官学校を二十三期で卒業され、陸軍大学三十四期生として、陸軍に任官、以後、ずっと陸軍畑を歩み続けた人です。
その根本中将が、なぜ台湾の国境紛争に関わったかのお話の前に、根本中将がどういう人であったかを顕わすひとつのエピソードをご紹介します。
大東亜戦争が終戦を迎えたのは、皆様ご存知の通り、昭和20(1945)年8月15日です。
ところが満蒙の地では、その6日前の8月9日に、突然ソ連が、日ソ不可侵条約を破って侵攻してきました。
北満州やモンゴル国境、千島、樺太などで、日本軍とソ連軍との凄惨な戦いが繰り広げられるのですが、それでも15日の終戦によって、内地から停戦と武装解除の命令がくだされると、多くの戦場で我が軍は、武装を解き、ソ連軍に降伏を行っています。
ところが、支那北部、モンゴル界隈に駐屯していた日本軍は、武装解除を断固拒否。15日の終戦後
ソ連軍に対して徹底抗戦を挑み、ソ連軍を敗退させただけでなく、民間人居留民4万人を無事に保護して、後方の北京にまで送り返しているのです。
実は、その指揮をとったのが、根本博中将でした。
当時、根本中将は、駐蒙軍司令官として、モンゴルの地にいました。
8月9日の侵攻開始から、ソ連軍があちこちで略奪や暴行、強姦、一般人の殺戮を繰り広げているという情報は、もちろん根本中将のもとにもはいってきています。
そして部下は、日夜、ソ連軍の猛攻と対峙しています。
そして8月15日の終戦。
根本中将は、本国からの武装解除せよとの命令を受け取りました。
けれど、こちらが武装を解除したからといって、日本人居留民が無事に保護されるという確証は何もないのです。
根本中将は決断しました。
民間人を守るのが軍人の仕事である。その民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じられない。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」
それが根本中将の下した結論でした。
8月19日、ソ連軍と、ソ連軍の支援を得た八路軍(毛沢東率いる支那共産党軍)の混成軍が、蒙古の地へなだれ込むように攻め込んできました。
ソ連製T型戦車を先頭に押し出し、周囲を歩兵で固め、空爆を実施し、数万の軍勢で一気に日本軍を踏みつぶそうと迫ってきたのです。
激しい戦いは三日三晩続きました。
そしてソ連軍は、敗退し、蒙古侵攻から撤収をはじめたのです。
それは、根本中将率いる駐蒙軍が戦いに勝利した瞬間でした。
実は、それだけではないのです。
日本人居留民4万人を、戦いが始まる前に、根本中将は列車を手配し、日本人民間人を全員、天津にまで逃しているのです。
しかも、軍の倉庫から軍用食や衣類を運び出し、食事の時間帯にあわせて各駅に食料や衣類をトラックで事前に運んでおき、避難する居留民達が衣食に困ることがないように、ちゃんと手配までしていました。
当時、張家口から脱出した当時25歳だった早坂さよ子さんの体験談が残っています。
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張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話にも戦々恐々と致しました。
5歳の女子と生後10ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。
駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。
張家口から天津迄、普通でしたら列車で7時間位の距離だったと思いますが、それから3日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。
列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。
そして兵隊さん達よ、無事に日本に帰ってきてと祈りました。
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8月21日、ソ連軍を蹴散らした中蒙軍は、夜陰にまぎれ、戦地からの撤収を図りました。
列車は全部、民間人避難のために使っていますから、自分たちは徒歩です。
そして食事は、持ち主のいなくなった畑のトウモロコシを生で齧りました。
たとえ装備が不十分であったとしても、助けるべき者を助ける。
そして自分たちは最後に帰投する。
そこに、強いものほど先頭に立って苦労をする、苦労を厭わない、帝国陸軍軍人の姿を見ることができます。
モンゴルでの戦闘に勝利した根本中将は、軍装を解かずにそのまま北京に駐屯しました。
そこで根本中将は、北支那方面軍司令官兼駐蒙軍司令官に就任します。
根本中将は、北支那にいる日本人、軍人合わせて35万人の命を預かる身となったのです。
支那では、日本が連合国に降伏後、当然のことながら、日本と敵対していた蒋介石率いる国民党軍が、幅を利かせるようになっていました。
けれど、根本中将率いる北支軍は、断固として武装を解きません。
日本軍と国民党軍の小競り合い、あるいはソ連の支援を得た毛沢東の八路軍と日本軍の戦いは、各地で無数にあるのだけれど、根本中将に率いられた日本の北支軍は、どの戦いでも支那兵を完膚なきまでに叩きのめします。
すでに装備もあまりなく、弾薬も底をつき出しているはずなのに、それでも日本軍を破ることができない。
次第に根本中将の存在は、国民党軍や八路軍の間で「戦神」と呼ばれるようになります。
それほどまでに、日本軍は強かったのです。
そしてついに昭和20(1945)年12月18日、蒋介石が直接北京に乗り込んできて、根本中将に面談を申し込んできました。
断る理由はありません。
むしろ、両者の争いを早急に終わらせ、国民党軍の協力を得て日本人居留民を無事、安全に日本に送り返すことの方が先決です。
はたして蒋介石は、根本中将率いる北支那方面軍とは争わないこと、日本人居留民の安全と、無事に日本へ帰国するための復員事業への積極的な協力を約束してくれます。
そして根本中将は蒋介石に「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束しました。
この会見の結果、在留邦人の帰国事業は、約1年で無事全員が完了し、北支の日本人は無事に日本に復員することができました。
そして全てを終えた根本中将は、昭和21(1946)年7月、最後の船で日本に帰国したのです。
それから3年、昭和24(1949)年のことです。
支那では、国共内戦が激化し、その戦闘はソ連のバックアップを得た共産党軍の圧倒的勝利に終わろうとしていました。
そんな折り、東京多摩郡の自宅にいた根本中将のもとに、ひとりの台湾人青年が現れます。
彼は「李鉎源」と名乗りました。
台湾なまりの日本語で、彼は「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語りました。
傳作義将軍は、根本中将が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に世話になった恩人です。
そのころ、支那本土を追われた蒋介石の国民党は、台湾に逃れ、そこを国民党政権の拠点とし、福建省での共産党軍との戦いを繰り広げていました。
けれど、敗退につぐ敗退です。
このままでは、蒋介石の命が奪われ、台湾が共産党の支配下に落ちるのも、もはや目前です。
なんとか閣下のお力を貸していただきたい、という李鉎源の申し出に、根本中将は、いまこそ蒋介石が復員に力を貸してくれた恩義に報いるときだと、確信します。
けれど、当時はGHQが日本を統治していた時代です。
旧陸軍士官が、自由に出歩くことすら覚束ない。
しかも、無一文で大陸から復員してきた中将には、台湾に渡航するための費用もありません。
ある日、根本中将は、釣り竿を手にすると、普段着姿のまま家族に「釣りに行って来る」といい残して、家を出ます。
そしてそのまま、台湾に渡航するための工作活動にはいったのです。
このことについて、すこし注釈が必要です。
昔の帝国軍人というものは、仕事のことを一切家族に言わない、というのが常識でした。
軍事は機密事項です。
さらに、軍隊は、人と人との人間関係が極めて濃厚な場所でもあります。
あいつは気に入らない、などとついうっかり妻に話し、聞いた妻がたまたまその相手と会ったときにしかめつらでもしたら、ただでさえ濃厚な人と人との繋がりにひびがはいります。
最近では、「軍は命令で動くもの」と思っている人が多いようですが、なるほど軍にはそういう面もあるけれど、それ以上に、みんなが納得して動いていたのが旧日本軍です。
やらされて戦うのではなく、感情面と理性面の両方で戦いを納得していたから、日本は強かったのです。
このことは、日本人なら、ああなるほどと、すぐに納得できることなのだけれど、人間関係を上下関係だけでしかみようとしない在日朝鮮人や、戦後左翼に染まった人はおそらく永遠にわからないかもしれません。
ここでは、そういうものだったのだと、ご理解いただきたいと思います。
根本中将は、まず戦前の第七代台湾総督だった明石元二郎氏の息子の明石元長に会います。
明石元長氏は台湾で育ち、戦後は日本にいて、台湾からの留学生や青年を援助していたのです。
台湾に国民党がやってきて、元からいる台湾人との間に様々ないさかいがあったことは、明石元長氏も承知しています。
けれど、これで蒋介石率いる国民党が、毛沢東の共産軍に負ければ、その時点で台湾は共産党政権に飲み込まれ、多くの台湾の民は虐殺の憂き目に遭うことになる。
それは火を見るよりも明らかなことです。
実際歴史を振り返ってみれば、支那共産党の侵攻を受けたチベット、ウイグルがどうなったか。
チベット、ウイグルの悲劇は、そのまま台湾民衆の悲劇となった可能性は否定できないことです。
明石は、なんとかして軍事面で蒋介石を支援しなければならないと考えます。
そのためには、戦いの神と呼ばれた根本中将を台湾に送り込むしかない。
けれど、明石氏も、無一文です。
根本中将に声をかけたはいいけれど、中将を台湾まで渡航させるための費用がない。
当時、金策に駆け回っていた明石氏の手帳が、いまに遺されています。
その手帳には、「金、一文もなし」と書かれたページがある。
明石氏の父の元二郎氏は、台湾総督を勤めた人物と書きました。
台湾にたいへんな功績を残した元二郎元総督のお墓は、台湾で、多くの人の寄付によって、200坪もある壮大なお墓が建てられています。
ところが、その元二郎氏は、お金にはとても綺麗な人で、家族には何の財産も残さずに死んでいます。
要するに息子の元長氏も、経済的に決して恵まれているわけではない。
ですから彼は、根本中将を送り出すため、あちこちのつてを辿って頭を下げ、資金提供を求めて回りました。
そしてようやく彼は、小さな釣り船を手配しました。
根本中将は、その釣り船に乗って、昭和24(1949)年6月26日、延岡の港から台湾に向かって出港します。
出港を見届けた明石元長氏は、東京の自宅に戻りました。
けれど、そのわずか四日後、突然お亡くなりになっています。
また42歳でした。
死因は、過労死でした。
根本中将を乗せた釣り舟は、普通なら、小さな釣り船は、琉球諸島を点々と伝いながら、台湾に向かいます。
けれど、根本中将は、見つかればGHQによって逮捕されてしまう。
ですから、船は、延岡から海を最短距離で一直線に、台湾を目指しています。
途中の海は、大しけでした。
出港から4日目、船は岩礁に乗り上げ、船底に大穴を開けてしまいます。
乗員達で、必死になってバケツとポンプで海水を汲み出す。
そして応急処置で、船底に板を打ち付け、しみ出す海水を何度もバケツで汲み出しながら、台湾に向かいました。
そして出港からなんと14日をかけて、ようやく台湾北端の港湾都市、基隆(キールン)に到着したのです。
到着したとき、船はボロボロ、乗っていた根本中将以下全員が、まるで浮浪者のような姿です。
一行は、その場で密航者として逮捕されてしまいました。
この頃の中将の写真が残っていますが、どちらかというと下膨れな顔立ちで、どっしりとした体型の根本中将なのに、写真のお姿は、頬がこけ、手足もガリガリに痩せ細っています。
それでまるで浮浪者のような姿で、髭ぼうぼうだったわけです。
怪しい密航者と思われても仕方がない。
根本中将は、牢獄の中で通訳を通じて、「自分は国民党軍を助けに来た日本の軍人である」と主張します。
けれど看守達は「何を寝ぼけたことをいっているのか」とまるで相手にしない。
それでも二週間もすると、どうやら基隆(キールン)に、台湾を助けにきた日本人がいるらしいというウワサが広がっていきます。
そしてそのウワサが、国民党軍幹部の鈕先銘(にゅうせんめい)中将の耳に入ります。
鈕中将は、根本中将が北支那方面軍司令官だった頃に交流があった人物です。
鈕中将は、「根本博」というその日本人の名前を聞いた時、反射的に立ち上がったといいます。
根本の人格と信念を知る鈕中将は、「あの根本中将なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのです。
人を知る者ほど、行動は早いものです。
鈕中将はその場で車を基隆(キールン)に走らせました。
鈕中将が来ると知らされた看守らは、慌てて根本中将ら一行を風呂に入れ、食事をさせたそうです。
根本中将らは、急に看守達の態度が変わったので、「いよいよ処刑か」と覚悟を決められたのだそうです。
そこへ、鈕中将が現れる。
鈕中将は、根本の姿を見るなり、「根本先生!」と駆け寄って、その手をしっかり握って放さなかったといいます。
それまで共産党軍にさんざん蹴散らされ、辛酸を舐めてきた鈕中将にとって、戦神根本の出現が、どれほどありがたく、大きなものであったことか。
根本中将らは、鈕中将とともに、8月1日に台北に移動しました。
そこで国民党軍の司令長官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けます。
湯恩伯将軍は、日本の陸軍士官学校を出た親日派の将軍でした。
日本語も流暢に話す。
二人は、すぐに打ち解けます。
ウワサというのは早いものです。
根本中将が台湾に来て、湯将軍と会っているというウワサは、すぐに蒋介石総統の耳にも伝わります。
蒋介石も行動は早いです。
その場ですぐに根本中将に会見を求める。
根本中将が応接室に入ると、蒋介石は、「好(ハオ)、好、好、老友人」と固く手を握りました。
老友人というのは、古くからの信頼する友人という意味の言葉です。
しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な顔で、根本中将にこう切り出しました。
「近日中に、湯恩伯将軍が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見てきていただきたい」
即座に快諾した根本中将に、蒋介石は感激して「ありがとう、ありがとう」と繰り返したといいます。
実は、この会見の2ヶ月前には、国民党は上海を失っていたのです。
上海防衛軍を指揮していたのは、湯将軍でした。
そこへ共産党軍が殺到した。
上海を失った事で、国共内戦の行方は誰の目にも明らかとなり、5日前には米国務省も、
「支那は共産主義者の手中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」と、公式に国民党への軍事援助の打ち切りを発表していたのです。
上海を失った国民党軍にとって、支那大陸での最後の足場は福建です。
福建といっても、福建省全体を意味しているのではありません。
上の地図でいえば、金門島の対岸にある商都、厦門(アモイ)界隈、すでにその界隈だけが、台湾国民党が守る唯一の支那大陸での足がかりだったのです。
つまり、ここを失えば、共産党軍は、一気に台湾まで攻め込んで来るわけです。
そうなれば、今度は台湾本島が戦場となり、国民党軍に勝ち目はない。
福建行きを承諾してくれた根本を、湯将軍は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせました。
いくら根本中将が恐縮して辞退しても、湯将軍はそれを許さない。
戦を知る湯将軍は、それだけ根本中将の実力をよく知る人でもあったのです。
昭和24(1949)年8月18日、根本中将ら一行は、福建に向けて出発しました。
国府軍の軍服を与えられ、名前は蒋介石から贈られた支那名の「林保源」を名乗りました。
厦門(アモイ)に到着した根本中将は、同地の地形等を調べ、即座に「この島は守れない」と判断します。
商都、厦門は、厦門湾の中の島です。
北、西、南の三方が大陸に面している。
海で隔てられてるとはいえ、狭いところではわずか2キロしか離れていません。
三方から攻撃を受ければ、島はあっという間に陥落してしまう。
しかも商業都市です。
20万人もの住民が住んでいる。
戦いとなれば、民間人に犠牲者が出ます。
さらに戦闘になれば、軍隊だけでなく、民間人の食料も確保しなければなりません。
そうなれば、食糧の自給ができない。
つまり持久戦ができない。
一方、すぐ対岸にある「金門島」は厦門湾の外にあります。
海峡は流れが速く、これを乗り越えるためには、速度の速い船を使ってもスピードが出せません。
島の人口はわずか4万。
漁業やさつまいもの栽培で生計を立てており、食料時給ができる島です。
つまり、大陸との通行を遮断されたとしても、金門島を拠点にすれば長期間戦い抜けます。
その日の夜、根本中将は、湯将軍に、自分の考えを話します。
そして「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」と断言します。
このとき、湯将軍は押し黙ってしまったそうです。
なぜなら「福建を守る」ということは商業都市である「厦門を守る」ということだからです。
共産軍は厦門を落としたと宣伝するだろう。
そうなれば国民党はさらに追いつめられることになる。
自分は蒋介石の怒りを買う。
けれど、根本中将は言います。
いまは台湾を守ることが、国民等政府を守ることです。
そのためには、戦略的に金門島を死守することが力となる。
自分の名誉ではなく、台湾を守る道筋をつけることが、軍人としての務めではないのか。
湯将軍はこれを聞いて決断します。
厦門は放棄。金門島を死守する。
基本方針は決まりました。
次に必要なのは、どう戦うかの戦術です。
根本中将はさらに情報を集めました。
共産軍は海軍を持っていない。
海峡を押し渡るためには、近辺の漁村からジャンク船と呼ばれる小型の木造帆船をかき集めルホカはない。
ジャンク船なら、海で迎え討つこともできる。
しかしそれでは、敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。
ならば、敵の大兵力をまず上陸させ、その上で、一気に殲滅して国民党軍の圧倒的強さを見せつけるしかない。
根本中将は、大東亜戦争時に日本陸軍が得意とした塹壕戦法を採用することに決めます。
海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させ、陸上に誘い込んで殲滅する。
まさに硫黄島や沖縄で、圧倒的な火力の米軍に対して大打撃を与えた戦法です。
根本中将は、共産党軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築や、敵船を焼き払うための油の保管場所、保管方法など、日夜島内を巡りながら、細かなところまで指示をして廻ります。
10月1日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が発っせられました。
勢いに乗った共産軍は、廈門さえも捨て、金門島に立て篭る国民党軍に対し、
「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけのことだ」と、国民党軍を完全に舐めきっていたのです。
10月半ばになると、金門島の対岸にある港で、共産党軍によるジャンク戦の徴発が始まりました。
有無を言わさぬ強制徴用です。
そして船がまとまった10月24日の夜、いよいよ金門島への共産党軍の上陸作戦が始まりました。
海岸は、上陸した共産軍の二万の兵士であふれかえります。
島からは一発の砲撃も銃撃さえもありません。
まさに、悠々と共産党軍は島に上陸してきたのです。
そして共産党軍全員の上陸が終了し、彼らが露営の構築に取りかかったとき、突然、彼らが乗船してきた海上のジャンク船から火の手があがりました。
火の手はあっという間に広がり、油を注がれた木造の小船は、見るも無惨に灰燼となってしまいます。
そして夜が明ける。
辺りが明るくなりかけたころ、突然島の中から砲撃音が鳴り響いたかと思うと、いままで何もないと思っていたところから、突然国民党軍の戦車21両が現れ、37ミリ砲を撃ちまくりながら、海岸にひとかたまりになっている二万の共産党軍に襲いかかったのです。
共産党軍は、算を乱して逃げるしかない。
けれど逃げるにも船は既に燃やされてありません。
共産軍は、国民党軍の戦車隊が出てきた方角とは反対側、つまり、金門島の西北端にある古寧頭村に逃げ落ち、そこで頽勢を挽回しようとします。
これまでずっと敗北を続けてきた国民党軍です。
ほとんど初めてと言ってもよい快勝に、血気にはやった兵士達は、そのまま一気に古寧頭村に攻め込もうとしました。
ところが根本中将は、そこで待ったをかけた。
「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ」というのです。
「村人たちが大勢殺されたら、今後、金門島を国民党軍の本拠として抵抗を続けていくことが難しくなる」というのです。
そして根本中将は、湯将軍に作戦を具申します。
古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させる。
そして南側から猛攻をかける。
つまり、敵に逃げ道を作って攻めかかる。
そうすれば敵は、必ず古寧頭村から北方海岸に後退する。
そこを砲艇で海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を包囲殲滅する、という作戦です。
湯将軍は、作戦のあまりの見事さに、根本中将の案をまるほど採用します。
10月26日午後3時、根本の作戦に基づく南側からの猛攻が始まると、敵は予想通り、北側の海岸に向かって後退しました。
そこにはあらかじめ、砲艇が待機しています。
砲艇の火砲が火を吹く。
反対側からは、戦車隊です。
共産党軍に逃げ場ありません。
砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化しました。
そして午後10時、共産軍の生存者は武器を捨てて降伏しました。
この戦闘で、共産軍の死者は1万4千、捕虜6千です。
一方、国民党軍は、けが人を含めて死傷者が3千余名。
圧倒的大勝利です。
わずか2昼夜で共産軍の主力が殲滅してしまったのです。
そして静かにウワサが広がる。
これまで敗退続きだった国民党軍がいきなり金門島で大勝利したのは、「戦神」と呼ばれる日本人の戦闘顧問がついたからだ。。。。。
日本軍の強さは、当時、日本軍と相まみえた軍なら、誰でも知っています。
その日本軍の作戦参謀が、国民党軍のバックについた。
それは共産党軍からみれば、まさに恐怖の出来事でした。
このことで、共産軍の進撃は完全に止まります。
そして金門島は、それから60年を経た今日も、台湾領です。
10月30日、湯将軍ら一行は、台北に凱旋しました。
湯将軍一行を迎えた蒋介石は、このとき根本中将の手を握って「ありがとう」とくり返したといいます。
根本中将は言いました。
支那撤退の際、蒋介石総統にはたいへんな恩を受けました。
私は、そのご恩をお返ししただけです。
結局根本中将は、この功績に対する報償を一銭も受け取らず、また、日本で周囲の人達に迷惑がかかってはいけないからと、金門島での戦いに際しての根本中将の存在と活躍については、公式記録からは全て削除してくれるようにとくれぐれも頼み、台湾を後にしました。
ただ、行きのときの漁船での船酔いがよほどこたえたのでしょう。
帰りは、国民党政府に飛行機を出してもらっています。
それだけです。
羽田に着いた根本中将の手には、家を出るときに持っていた釣り竿が、一本、出たときのままの状態で握られていました。
それはあたかも、「ただちょいとばかり釣りに行ってただけだよ」といわんばかりの姿でした。
そしてこの釣り竿には、もうひとつ、根本中将の心をあらわす大切なメッセージが込められているのではないかと思います。
それは、家を出るとき家族に「釣りに行って来る」と言って出た。
そのときの釣り座をずっと持っていたということは、そのままどんなに激しい戦地にあっても、途中にどんな困難があっても決して家族のことを忘れない。
そういう男のやさしさというか家族を大切に思う気持ちが、根本中将の手の釣り竿に込められていたのではないかと思うのです。
根本博中将は、昭和41(1966)年、74歳でこの世を去られました。
それにしても、帝国陸軍軍人って、ほんとうにすごいし、かっこいいですね。
男に生まれたら、根本中将のような立派な人にあやかりたいなと本気で思います。