背中の静ちゃん、大石清兵長。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。





草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 



昭和20(1945)年3月13日深夜から14日未明にかけて、グアムを出発した274機の米軍B29の大編隊が大阪の町を襲いました。
世に言う「大阪大空襲」です。

約2千メートルの低空から、深夜の一般家屋をねらったこの空襲は、大阪の町に大火災をもたらし、一般の民間人3,987名の死者と678名の行方不明者を出すと言う大惨事を招きました。

九州の任地で、この報に接した大石清伍長は、請願休暇をもらい、一昼夜をかけて大阪駅にたどりつきました。
大阪駅のプラットホームからみた大阪の街は、まるで焼けこげたトタン板を投げ出したような扁平だったそうです。


見渡す限りの焼け野原でした。
どこを見ても瓦礫の山です。
その瓦礫の中に、男とも女とも区別がつかない黒こげの死体が、何百と散乱していました。

大石清伍長は、焼け落ちた電線や塀の倒れた上を踏み越え、松坂屋の残骸を目じるしに歩きだしました。
(生きていてくれよ、父ちゃん母ちゃん、静(しい)ちゃん)

けれど、松坂屋の裏手にあった彼の家の附近は、あとかたもなく、どこの家がどこやら分らぬほどに焼けくずれ、飛散した瓦や壁土に半ば埋もれた町会の防空壕だけが、暗い空洞をみせているだけでした。

近所や隣組の人たちは、どこへ逃げていったのか誰の姿も見えません。
探し疲れた清は、その夜、壕のなかで眠りました。

やむなく隊に帰還した清のもとに、3月25日、一枚の郵便が届けられました。
和歌山県の新宮にある母の実家を継いでいる伯父からのものでした。
母と妹の静恵は無事。
大空襲の前夜、父のすすめで天王寺から電車に乗せられ、東和歌山駅から鉄道で新宮に疎開していたとのことでした。
まさに危機一髪でした。

けれど、国民学校(いまの小学校)の教師をしていた父は、空襲の夜、学校に宿直していて、殉職していました。

清は、その日の日記に次のように書いています。
~~~~~~
あゝ訓導としての使命を果せし立派なる父の死。
ありし日の父の温顔を思ひうかべなば、万感、胸にこみあげ涙とめ難し。
~~~~~~

3月28日、沖縄に米軍が上陸を開始します。
清のいる基地からも、沖縄に向けて振武特攻隊が出撃します。

そしてその日の午後、特攻の編成発表ありました。
清は、ト号要員を拝命します。
彼は、必ずや一艦を轟沈して父の仇を討とうと決意を新たにします。

翌3月29日に沖縄に向けて出撃した特攻機の戦果発表がありました。
轟沈 戦艦  1
   巡洋艦 3
   駆逐艦 6
撃破 戦艦若くは巡洋艦 9

4月1日、桜の花が満開となった快晴の日、新宮の伯父から清のもとに電報があります。
「ハハ、重態 父の死の衝撃と旅の疲れが原因」

清は、鎌本軍曹殿の厚情を得て、区隊長殿から休暇をいただき、その日の15時、新宮の母の実家に向います。
出発のとき、軍曹殿が「これ、みんなからだ」と見舞金をくれました。
清は、日記にしたためます。
「この温情、死すとも忘るべからず。父を失ひたる病床の母、幼なき妹、暗澹たる思ひ。車中にて涙流るゝ」

このときの第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状です。
~~~~~~~
一、ト号隊員ノ遺族ニ関スル相談。

〔相談〕
隊員大石清伍長ノ父ハ 国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)、
家ニハ 重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ
家産ナク 父ノ収入ニテ生活シアリタリ
家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ
~~~~~~~

釜本軍曹は、特攻隊として旅立つことが決まっている大石清兵長に代わり、軍の本部に「家族の生活の保証を相談してくれていたのです。

昭和20(1945)年4月8日午後7時、大石清伍長は隊に戻りました。
父が亡くなり、母も後を追うように、亡くなってしまいました。
彼は、父母の遺骨と遺品を、丹鶴城近くの桜の見える墓地に納骨してきました。

納骨のとき伯父が言いました。
「(妹の)米子は、小(こま)い頃からお城の花が好きじやった」
清は、ただただありがたく、頭を下げることしかできませんでした。

母の実家に帰るとき、清は、伯父に航空ウイスキーとタバコを持参しました。
叔母にはドロップと落下傘のマフラーを渡しました。
妹の静恵には、チョコレートと乾パンを手みやげにしました。

別れ際、妹のことを「くれぐれもよろしく」と伯父にたのみました。
隊に戻るため新宮駅で別れるとき、妹の静恵は、泣いていました。
伯父夫婦も泣いていました。
せめてあと数日、妹の傍に居てあげたかった、それがいつわらざる、清の気持ちでした。

4月22日の午後、特攻攻撃に関する授業がありました。
九七戦を爆装して燃料タンクを装着すると、速度が150km/hに落ちる。
その低速で、敵戦闘機網をかいくぐり、猛烈に対空攻撃をしかけてくる敵艦隊めがけて突入するというのです。
ほとんど無理といっていいくらいの作戦です。
出撃すれば、帰れない。
自分の命は、ながくてもあと1ヶ月あるかないかです。

思いを整理するために、妹に写真、伯父夫婦に手荷物などを小包にして送りました。
荷造りしていると、鎌本軍曹はじめ隊員のみんなが、これも入れろよと、航空糧食や煙草その他を渡してくれました。
その中には、隊のみんなで書いてくれた、妹への激励文もありました。
清は、隊のみんなとの、集合写真を同包しました。

【妹への手紙】
~~~~~~~~
静(しぃ)ちやん お便りありがとう。
何べんも何べんも読みました。

お送りしたお金、こんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。
神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買って、つかって下さい。

兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にいるとお金を使うこともありませんから、
これからも静(しず)ちやんのサイフが空っぽにならないよう、毎月おくります。
では元気で。
おじさん、おばさんによろしく。

兄ちやんより
~~~~~~~~~

昭和20(1945)年5月14日、福田助教殿が、沖縄洋上で敵艦船に突入し、壮烈な最後を遂げられます。
練成飛行隊では担任の先生でした。
当時の助教授殿の、明るい笑顔と勇姿が頭をよぎります。

「捨身殉国斃而後不已」
捨て身の殉国、倒れて後に已(や)まん」
ただただ感無量です。

5月20日、清は最後の日記をしたためます。
~~~~~~
いよいよ出発だ。
苦楽をともにした整備隊員たちとも別れを告げ、今日、俺は機上の人となる。
整備隊員の見送る中を飛び立ち、上空で翼を振り、機首を鹿児島に向ける。
高度3000メートル。はるか機上から、亡き父母の霊に、幼き妹に別離を告げる。
~~~~~~


【大石伍長の遺書】
~~~~~~~~~
なつかしい静(しぃ)ちやん!
おわかれの時がきました。
兄ちやんはいよいよ出げきします。

この手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散っています。
思いがけない父母の死で、幼ない静(しぃ)ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちやんのかたみとして、静ちやんの名で預けていた郵便通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上るときにつかって下さい。
時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんたのんで、売つてお金にかえなさい。

兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちやんは征きます。

泣くなよ静ちやん。
がんばれ!
~~~~~~~

【大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)】
大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。
わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。
そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんの作った人形(特攻人形)を大へんだいじにしておられました。
いつも、その小さな人形を飛行服の背中に吊っておられました。
ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげているのですが、伍長どのは、突入する時、人形が怖がると可哀そうと言って、おんぶでもするように背中に吊っておられました。

飛行機にのるため走って行かれる時など、その人形がゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでしょう。
「同行二人」・・・仏さまのことばで、そう言います。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。
いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだったのでしょう。

けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの「仏さま」になって、いつも見ていてくださることゝ思います。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当りされました。
静恵ちやんも、立派な兄さんに負けないよう、元気を出して勉強してください。

さようなら。
~~~~~~~

このお話は、神坂次郎(こうさかじろう)著「今日われ生きてあり(新潮文庫)」の中で、「背中の静ちゃん」として収録されている物語です。

ブログ用に、口語体に編集して掲載させていただきました。
原文は、ネットでも読むことができます。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/120915.html

神坂次郎氏が、時代小説家であったこと、そして出撃した特攻隊員の中に「大石清」という名前がなかったことなどから、このお話が世に出た当時、このお話が「単なる創作だ」という論がかなり出回りました。

けれど、少し考えればわかることですが、妹の静恵さんは、昭和20年の時点でまだ11歳です。
仮名を使う配慮をしたとしても何ら不思議はないことです。
そしてそれ以上に大切なことは、大なり小なり、このような事例はあったであろうということ。
そして特攻隊に限らず、戦地で立派に戦われた幾百万の日本の兵士たち全員に、たいせつな家族や友や恋人がいたということ。

ひとりひとりが、生きた人間であり、同じ日本人であったということなのではないかと思います。
彼らは、その大切な人のいる祖国日本を、なんとしても護り抜こうと戦い、散っていかれたのです。
そして、彼らがそういう思いに至った背景として、日本人は日本的意思として「他人を思いやる心」をとても大切にしてきたということだということなのだと思うのです。

私が以前勤めていた会社にも、在日朝鮮人がいました。
日本名(通名)を名乗っているから、最初は朝鮮人とはわかりませんでした。
ただ、「妙に風を吹かせる」ということと、やたらに権威主義的な振る舞いが目立つという感じがあり、そして業務上の深い話になると、微妙なところで日本語が通じない。

普通に遊んでいる分には、いいのです。
同じ人間です。
ところが、ここ一番というときになると、日本語をしゃべっているのに、言葉の意味や、その心が通じない。
ですから、当時はとても不思議に思っていました。
あとでそれが朝鮮人だとわかり、おもわず納得しました。

日本人と、朝鮮人の大きな違い。
それが、相手に対する思いやりの心が持てるかどうかなのではないかという気がします。

そしてその思いやりの心が、あまりに美しく気高かったが故に、戦後の世界には、日本と戦争をするととんでもないことになる、という意識が芽生え、だから日本は先進諸国で唯一、戦後67年間の長期にわたって、戦争のない、平和を堅持し続けることができたのです。

言い換えれば、戦後の日本の平和は、この大石清兵長の物語にあるような、思いやりの心をもった若者達が、立派に戦ってくださったおかげで、築かれた。

そのことを、もういちど私達は確認する必要があるのではないかと思います。