■曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京連続集会
以下は、平成24年10月23日、曽我ひとみさんをお招きし、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京連続集会の全文です。曽我さんが、拉致された時の模様、北朝鮮での状況など、質問に対し、詳細な体験を語りました。初めて聞くことが多い内容でした。4日に分けて送ります。概要以下の通り。
司会(平田隆太郎・事務局長)今日は、曽我ひとみさんのお母さん、曽我ミヨシさんを救うぞ!東京連続集会という形で実施します。惠谷治さん(ジャーなりスト)と西岡力会長が、曽我さんに色々な質問をしながら、話を進めていきます。
◆根拠がない北朝鮮による曽我さん親子拉致資料
西岡 拉致問題で一番有名な名前は「横田めぐみ」さんだと思います。そして田口八重子さん、有本恵子さん、増元るみ子さんという名前は有名ですし、また曽我ひとみさんという名前もこの10年間で有名になったと思います。しかし、私たちが覚えなくちゃならない名前は曽我ミヨシです。
曽我ミヨシさんは、まだ帰ってきていない認定被害者です。しかし、「死亡」と言われているのではなく、「未入境」、北朝鮮に入ってないと北朝鮮が言っています。
日本は北朝鮮を国家として承認していませんのでので、国という言葉を使わないということもあって、「未入国」ではなく、「未入境」になっていると思います。
とにかく北朝鮮は「入っていない」と言っています。「入っていない」認定被害者というのが一つの枠組としてあります。それは曽我さんのお母さんと、田中実さん、久米裕さん、そして松本京子さんです。この4人は、「死んだ」と言われているのではなく、「入っていない」と言われています。
なぜ彼らはそう言うのか。13人しか拉致を認めなかったわけですが、日本政府は17人認定していますから、4人の違いは何なのかを考えていきたいと思います。
そのために、北朝鮮は曽我さんのお母さんについて何と言っているのかということをまず確認して今日の集会を始めたいと思います。
お手元に、平成14年10月2日「拉致問題に関する事実調査チーム」と書かれた資料があると思います。今から10年前、北朝鮮が拉致を認めました。しかし、その時一方的に、「8人死亡、5人生存」と言いました。曽我さんの名前はその時初めて出てきましたが、外務省は現地で調査をしなかったわけです。
そして調査をしたのが、9月末から10月初めにかけてで、10月2日に日本に戻ってきて家族会に説明し、記者会見で説明した外務省が作ったペーパーです。北朝鮮がそれぞれの人についてこう言っていましたということを日本政府がまとめたペーパーです。
当時の調査団長は斎木さんです。田中局長とけんかしながら北朝鮮に対して根拠を示せと机をたたいたんです。余談になりますが、8人のうち7人の、横田めぐみさん以外の死亡確認書は出てこなかったんです。7人については、死亡口頭で説明しただけです。斎木さんは最後のセッションで、机をたたいて、「家族が待っているんだ。こんなんじゃ帰れない」と言ったら、北朝鮮代表団がいなくなって、2時間して帰ってきたら、でたらめな死亡確認書を持ってきた。ゴム印の位置が一緒だったりするのを持ってきました。その紙を持ってきたから、でたらめだと今言えるんです。口頭で納得して帰ってきたら、「言った」、「言わない」
ということになってしまう。
その点では斎木さんがやったことを評価しているんですが、その斎木さんが北朝鮮から聞いてきたのが曽我ひとみさんに関する情報がこれです。確認します。
1.朝鮮名:ミン・ヘギョン
これはそうですが。(曽我さんうなづく)北朝鮮で使っていた名前だそうです。
1959年5月17日生まれ。
本籍が「佐渡郡ハタノマチ」とありますが、ハタノマチは隣町で、真野町のまちがいです。出生地も真野町のまちがいです。住所もそうです。
5.現住所:平壌市スンホ(勝湖)区域リプンクリ(立石里)というのはあっていますね(うなづく)。
6.前職:佐渡総合病院看護婦。これは合ってますね。
7.現職:被扶養生活。これは北朝鮮の用語で主婦ということです。 ここは問題ないですが、8番を見てください。
8.入国経緯:1978年8月12日。
ここだけは合っています。「特殊機関工作員が身分隠しおよび語学教育の目的で現地請負業者(日本人)に依頼し、引渡しを受けて連れてきた」。拉致について現地請負業者があり、それも日本人だと言っている。「身分隠しおよび語学教育」というのは、いわゆる背乗りという身分を取ることと、語学教育というのは当時既に日本で明らかになっていた拉致の目的にすりかえたと思われます。
問題はこの「現地請負業者」です。続いて、
9.入国後:約2年間特殊機関の招待所において、語学の学習、参観を通じ、実情に慣れてきた。1980年8月8日、入北した米軍元兵士と結婚し、国家から生活条件を保障されて暮らしている」。これは間違いないですね(うなづく)。
10.家族関係:夫チャールズ・ロバート・ジェンキンス。62歳。南朝鮮侵略軍と書いていますね。第一騎兵師団8連隊1大隊C中隊の分隊長として勤務中に1965年に入国。曽我ひとみさんと結婚して、2人の娘をもうけた。美花さんとブリンダさんのことが書いてあります。
これも生年月日などは間違ってないですね(うなづく)。
その次、11を見てください。曽我ミヨシさんについて北朝鮮が公式に説明しているのはこの2行なんです。
11.母・ミヨシさんについては承知していない。特殊機関工作員が現地請負業者から引渡しを受けたのは曽我ひとみ一人だけ。
日本政府が認定している曽我さんのお母さんについて、北朝鮮の公式説明はこれだけなんです。これがいかに根拠がないことかということを、みなさんの前であきらかにするというのが今日の集会の主題です。そのために、78年の8月12日にいったい何があったのかということを、集中的に曽我さんから聞かせてい
ただきたいと思っています。
そして現地を取材し、何回も書いているジャーナリストで、救う会の「拉致の全貌プロジェクト」の委員でもある惠谷治さんにも来ていただきました。曽我さんには、現場で体験したことを語っていただき、我々が分析するという形で、この北朝鮮の言っていることがいかにおかしいのか、北朝鮮が曽我ミヨシさんについて説明する責任があるということをここで証明していきたいと思っています。
◆初めて公開-曽我さん親子拉致の詳細
まず曽我さんにお願いしたいんですが、みなさんのお手元に、2003年11月12日付けの救う会のメールニュースが配られています。これは当時、曽我さんが国連人権委員会の強制的失踪作業部会に提出された、曽我さんが書いたものです。
これは、曽我ミヨシさんのことをジュネーブの強制的失踪作業部会でとりあげてほしいというものです。自分のことじゃなくてですね。そしてお母さんについて自分が知っていることについて国連に出されたものです。
これを見ながら8月12日に何があったのかを、曽我さんの言葉で話していただければと思います。まずはご挨拶をお願いいたします。
曽我ひとみ みなさんこんばんは(拍手)。今日は、足元の悪い中、こんなに大勢の方々がここにお集まりくださいまして、大変ありがとうございます。今日、この場を作っていただいた救う会の方々に、改めて感謝の気持を伝えます。
私は10年前に日本に帰国しました。10年の間色々なことがありましたが、いつも気にかかっていることがあります。それはただ一つ、母のことです。今年(12月で)81になります。本当に母のことを考えると、居ても立ってもいられない気持でいっぱいになります。
今日、こういう場をもうけていただいたことに感謝しながら、この場で少しでも母の救出のために何か明るい光が見えてくればと心から願っています。ではこれから、私が拉致されたことをお話したいと思います。
私は、1978年北朝鮮に拉致されました。ちょうどお盆の前の8月12日の土曜日でした。私は看護師の仕事をしながら、決まって土曜日には家に帰り、日曜日の午後にまた寮に帰るという生活が続いていました。
ちょうどその日も土曜日で、午後家に帰りました。お盆前ということで、母が少し足りないものがあるので買い物に出かけようということになりました。その時、6つ違いの妹がいたんですが、妹も母と一緒にでかけたい、私も1週間会えなかったので1週間にあったことを色々話をしたかったので、一緒に行くより母
親と二人きりで行きたいなという気持がありまして、妹とちょっとだけけんかをした覚えがあります。
西岡 つまり妹さんを置いてお母さんと二人になりたかった。
曽我 はい。それで結局、私と母と一緒に買い物にでかけることになりました。行きは病院であった話などを色々しながら、楽しく店まで着きまして、店で買い物を終えてまた家に変える途中のことでした。
歩道を歩いていたんですが、もう薄暗くなっている時間帯で7時は過ぎていたと思います。夏場ですので、7時を過ぎてもまだぼんやりと明るいくらいの時間帯でした。母と話をしながら歩いていましたら、何かちょっと後ろの方から人の気配を感じまして、一度後ろを振り向きました。
そうしたところ、男の人が三人、縦並びじゃなく、横並びで、私たちのあとをゆっくりとついてくるのが見えました。「なんか変な男の人たちが後ろから付いてくるね」と母と話しながら、「気味が悪いから早く帰ろう」と、少し足早に歩き始めた時でした。
後ろから三人の男の人が急に駆け寄ってきまして、道端にある植え込みの中に私と母親を引きずりこみました。その時私は口をふさがれて、袋をかぶされました。一緒にいた母親は、そのとき以来一度も声を聞くこともなく、姿を見ることも今までありません。本当に夢のような話で、自分自身もよく分からないところがいっぱいあります。
その後ですが、私は袋に入れられたまま小さな船のところまで行きました。その船の上にしばらくいましたが、ちょっと離れた所で日本語を話している声が聞こえてきました。その日本語は佐渡の人が話している佐渡弁ではなく、日本人でもない、ちょっと発音が違う、そんな印象を受けています。
私も袋をかぶされたままの状態だったので、話している内容というのはよく分かりません。その後、しばらくしてから大きな船に乗せられて、次の日の夕方北朝鮮の清津というところに着きました。その時には、清津というところは分からなかったのですが、後で時間とか計算したら清津の港だったということでした。
西岡 細かいことは後で惠谷さんに事実を確認していただきたいと思いますが、まずこの8月12日という日は、市川さん・増元さんが拉致された日と同じ日です。同じ日に、佐渡と鹿児島で拉致があったわけです。
今の話で私がまず確認したいのは、お母さんと一緒に道で襲われた。それは三人の男に襲われた。その三人の男は日本人でしたか、朝鮮人でしたか。
曽我 日本人ではありませんでした。
西岡 それはなぜ言えますか。
曽我 北朝鮮に行った時に、その男の人たちもいたので分かります。
西岡 つまり、襲ってそのままその男たち三人も一緒に木の船に乗り、そして大きな船に乗って清津まで一緒に行った、と。その襲った人たちだと間違いなく分かることですか。
曽我 顔付き一つひとつと言われると分かりませんが、一緒の時間に私が着いた清津の招待所に一緒に着いています。そして工作員の女性とも何をしゃべっているのか分かりませんでしたが、話していたので。
西岡 (もう一人の小船にいた)工作員の女性というのは金ミョンスクですよね。
曽我 はいそうです。
西岡 もう名前が明らかになっていますが、金ミョンスクは日本語ができたわけですね。
曽我 日本語はできます。
西岡 船の中でも曽我さんと話したんですか。
曽我 少し話しました。
西岡 つまり、金ミョンスクという女性工作員が木の船には一緒に乗っていたわけですね。
曽我 はい。
西岡 それと男の三人がいて、一緒にそのまま北朝鮮に行ってるわけです。(日本人の)業者は関係してないんです。誰か下請けに出したとすれば、隠れ家みたいなところに連れていかれて、そして北朝鮮に捕まえることができたと連絡して、接線をする。そうではなくて、現場で、曽我さんとお母さんが一緒に襲われ、そのまま連れていかれた。
この事実だけでも北朝鮮の言っている「現地請日本人負業者に依頼した」、「引渡しを受けた」と違う。引渡しを受けてないわけです。それは間違いないですね。
曽我 はい。
◆工作員が日本で話した相手は曽我ミヨシさんの可能性
西岡 ということが明らかになるわけです。もう少し細かいことを配布資料の地図(惠谷治作成)を見ながら聞いてもらいます。
惠谷 細かいことですが、曽我さんを信じてないのではなく、確認をしたいだけです。まず、お母さんと二人で家を出て、道を渡って海側の歩道を逸見商店まで行かれたんですね。その時私が取材した逸見商店では、ひとみさんとお母さんが二人で来るのは初めてではなかったか、と言われていましたがどうですか。
曽我 私は中学校を卒業してから看護学院に入りました。それが金井という場所にありましたので、2年ほど寮に入っていました。その後そこの病院で働いていたので、何年かは一緒に店に行くということがほとんどなかったと思います。
惠谷 つまり、子どもの時期はあったけれども、卒業後は初めてだと。
曽我 はい。
惠谷 これは工作員がどういうことで監視したかという意味での確認です。お母さんと店を出て、また海側の歩道を戻られた。日本農機具整備工場を過ぎて、どこかの家の植え込みに連れ込まれたということですね。
曽我 そうです。
惠谷 振り返った時、三人の顔を覚えている必要はないんですが、顔が分かるく
らいだったか、顔が分からない暗さか、どうでしたか。
曽我 もちろん離れているということもあったので、また薄暗い状態だったので顔の輪郭がどうだったかというところまでは分かりません。
惠谷 私は事件から25年後の同じ日、同じ時間に現場で取材しました。その日は6時33分が日没です。曽我さんは7時か7時半頃と、当然時刻を覚えている筈はないんですが、7時すぎならまだ明るい。真っ暗な中で襲ったというわけではない。つまり犯行は目撃される可能性がある時間だったということです。そして民家の植え込みに連れ込まれた。
口をふさがれたのはどういう状況でしたか。またタオルのようなものですか、器具のようなものですか。
曽我 きれのようなものでした。
惠谷 手足を縛られましたか。
曽我 はい、手足も縛られました。
惠谷 その時、ガムテープのようなものとか、ひもとかご記憶はありますか。
曽我 ひものようなもので、ガムテープではなかったです。
西岡 手錠じゃなかったですね。富山の事件のような。
曽我 はい。
惠谷 袋をかぶせられた時は、立っていた状態ですか、寝かされていた状態ですか。覚えてないですか。
曽我 その辺は定かではありません。
惠谷 はい。大混乱していますから私もそうだと思います。曽我さんはご存知かどうか、私が現場に行ってみたら、そこから川に出る小道があります。おそらくそこを一人の男がかついでいったのだろうと。つまり、俊敏に行動しないと目撃されるような時間帯だったということです。
今もそうですが、当時は葦が水辺にはえていまして、そこに小型の船を当然待機させていた。ところが、佐渡で色々お聞きすると、不審な船がいつも泊まっていたというたくさんの証言がありました。それが工作船かどうか分かりませんが、逆にそういう形で紛れ込ませて待機し、曽我さんを乗せた。
岸から船に乗って、しばらく動かなかった。すぐに出発しなかったような証言ですが、いかがでしょうか。
曽我 最初小さい船にそのまま置かれたというか、しばらくそこにいたような気がします。時間がどのくらいかと言われてもよく覚えていません。その時、近くで日本語で話している声が聞こえたのです。
惠谷 そのタイムラグは恐らくお母さんを乗せるまで待っていたんじゃないかと私は想像しています。そしてお母さんが連れてこられて、その時に金ミョンスクが、お母さんに何かを話したのではないかと思っています。
西岡 そこが一つの大きなポイントなんですが、曽我さんは木の船に乗せられて、待たされていた時に、自分に対してではなくて女性が日本語をしゃべっているのを聞いた。その発音などは日本語が母国語じゃない人だということは未だに覚えている。その後、金ミョンスクと船の中で話をし、清津でも話をして、その声の持ち主が金ミョンスクだったというふうに今は思っている。それでいいんですか。
曽我 多分そうだと思います。
西岡 そこにいたのは、男の工作員三人と金ミョンスクと曽我さんとお母さんなんですね。工作員同士話をする時は、朝鮮語を使うわけです。しかし、日本語が聞こえた。曽我ひとみさんに話しかけたのではなかった。とするとお母さんに話しかけていたとしか思えない。
つまり、その段階ではお母さんも襲われていて、船のところ、近くまで来ていて、多分母親は娘のことが一番心配でしょうから、抵抗したりしたとすると、「静かにしなさい」というようなことを言われていたと、私はその話を最初に聞いた時から思っていたことです。
何かそういう感じ、何か覚えてないんですよね。
曽我 それが、どういう話をしていたかは、私も袋をかぶされたままで、ちょっと離れたところにいたので定かではないです。
◆たまたまお母さんと買い物に
西岡 お母さんのことを話した後、曽我さん拉致がどういう形だったのかを議論したいと思いますが、そのためにもう1回確認しますと、買い物は夕食のおかずを買いにいったのですか。ご飯を食べた後ですか。
曽我 まだ食べてなかったと思います。でもよく覚えてないです。
西岡 妹さんも行きたいと言ったというのは、妹さんとお母さんが二人で行くか、曽我さんとお母さんが二人で行くかでけんかしたのか、三人で行きたいと言って、あなたは残ってと言ったのか、どうですか。
曽我 私が母親と二人っきりで話をしたいという思いがあって、別に妹をそっちのけにして行くという問題じゃなかったんですが、二人っきりで話をしたかったのでちょっとけんかっぽくなって、妹は残ることになった。
西岡 というのは、毎回曽我さんが土曜日に帰ってきて、その時間に逸見商店に買い物に行っていたわけではないですよね。
曽我 それは違います。
西岡 先ほども、初めてということでしたし、二人で行くか、三人で行くか、お母さんと妹さんで行くかは、その時の曽我さんやお母さんの気持で決まったことで、事前に他の人は誰も分からなかったと言えますよね。
曽我 そうです。
西岡 では次に、小さな木の船のことで。大きさは覚えていますか。
曽我 大きさは分かりません。
西岡 少なくとも三人の戦闘工作員とミョンスクと曽我さんとお母さん6人乗って、なお曽我さんにお母さんがいることを感ずかれないくらいの広さがあったかどうかということになりますね。そこから移される時に木の船を見ませんでしたか。
曽我 袋をかぶされていたので見てません。
西岡 その船がそのまま母船に入れられたかどうかは見てないですよね。
曽我 そこも分からないです。
西岡 今までだと、ゴムボート、小船、母船と2回乗り換えるというのが常識だっ
たのですが、ここではそうじゃないですね。北朝鮮の工作船というのは、漁船に偽装していて、船の後ろが開いて小船が出てきます。しかし、小船が港まで来るというのはちょっと考えられなくて、小船は沖にいてゴムボートかアクアラングなどで潜入するというのが今までのパターンですね。
惠谷 通常は3段階ですが、今回の船は、地元の人が川にいつも泊まっていたというのは、15メートルくらいで日よけの屋根を付けていた。釣りなどに使うような船だった。それが曽我さんが乗せられた船かどうかは分かりません。しかし、恐らく曽我さんのケースは通常の工作母船から小船が出て、小船は沖合い1キロくらいのところに止める。あとはゴムボートかアクアラングで上陸するというシステムです。
曽我さんの場合は、地元に溶け込んだ小型の木の船に乗せて母船にその船を収容したのか、あるいは曽我さんたちを母船に乗せた後、どこかに行ったのか、そのあたりは確認がとれません。
曽我さんの記憶では(乗り換えは)1回ですから、母船にのせられ、翌13日午後5時に清津に着いた。非常に高速の船です。通常は二晩かかります。もちろん高速船なら一晩で着きます。曽我さんは日付付きの腕時計だったので、「はっきり覚えている」とおっしゃいます。
西岡 そうなんですか。
曽我 そうです。
惠谷 最新鋭の工作母船だったと思います。
西岡 母船の話に行く前に一つだけ。(78年)当時夏に襲われたのはみんなアベックです。曽我さんだけ親子なんです。後ろから見た時にお母さんの服装が男性に見られるような服装だったという仮説もありえると思います。向こうは後ろから見ていたわけです。惠谷さんは、「お母さんは黒の作業着だった」と書いて
います。そして、「ひとみさんは白地に花柄模様のブラウスだった」。どこかの新聞か何かに書かれています。これは正しいですか。
曽我 私はワンピースです。紺色で細かい花柄です。
西岡 ワンピースを着ていれば女性だと分かりますが、お母さんについては覚えていますか。
曽我 よく覚えていないんですが。
西岡 これは失踪した時のどこか、警察か何かの記録かなあ。
惠谷 申し訳ないんですが、これを作ったのは8年前なので。私も気になって服について書いたんですが、背丈でいうとお二人が並んでどうですか。
曽我 ほとんど同じくらいか、母親の方が少し小さいと思います。
惠谷 私はカップルを狙ったというよりは別の指示があったのではないかと思っていますがはっきりとは分かりません。
西岡 お母さんは普通家にいる時はズボンですか、スカートをはいていましたか。
曽我 けっこうズボンの方が多かったです。
西岡 髪は長かったですか、ショートヘアーですか。
曽我 短いです。
西岡 ズボンをはいていて、髪が短くて暗いと、アベックに見えた可能性もゼロではない。後ろから見て。まあなんともいえないんですが。
惠谷 今通りかかったアベックのカップルを拉致したという状況ではなかったという気がします。これは全く私の推測です。
西岡 小船にいた時は袋に入れられていて、その近くにお母さんがいた気配は全然しなかったということですね。
曽我 感じませんでした。
西岡 船が出る前に聞いた日本語の話だけですね。
曽我 はい。
西岡 そして沖に行って母船に乗り換えさせられた。そしてどういう所に入れられたのですか。
曽我 船の中の個室です。
西岡 上から入れたのですか、横からですか。
曽我 横から。
西岡 じゃあ部屋ですね。
惠谷 大きさは。立って歩けましたか。
曽我 横になるとぎりぎりくらい。斜めに寝る。立つのはできました。
西岡 扉が横についていた。
曽我 多分そうだったと思います。
西岡 扉が開いて食事が入ってきたのですか。
曽我 (扉の)下に出窓のようなものがあって、そこから入ってきます。
西岡 トイレはその部屋には。外に出て使った。
曽我 そうです。
西岡 どのくらいの部屋が船にいくつあるかということは。もう一つあれば別々に管理ができる。工作船の構造からしてどうですか。
惠谷 工作母船であれば今横浜に展示していますが、それであれば4つくらいの部屋は十分とれると思います。
西岡 めぐみさんは真っ暗な船倉に入れられて、コンクリートの壁をかきむしったと、連れていかれた人間から間接的に聞いた情報がありますが、真っ暗だったんですか。
曽我 夜は真っ暗でした。朝方になるとどこからともなく陽が射してくるような。別に電気をつけたわけではなく。
西岡 入れられた時は夜だから真っ暗ですね。最初に入れられた時は袋をかぶせられたままですか。
曽我 そうです。
西岡 本当に怖くて大混乱だったでしょう。
曽我 はい。
西岡 お母さんのことを具体的に聞きますが、トイレを使ったりする時も、お母
さんの気配は全然なかったのですね。
曽我 母親の気配はなかったです。
(つづく)
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