「鎌倉武士」が創った日本。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明





高校時代まで剣道に打ち込んだ。汗にまみれ、竹刀をふるうときは無心になることができた。武士にあこがれ、歴史が好きになった。そして知ったのは、日本の歴史は12世紀以降、武士によって描かれてきたということだ。治安の維持だけでなく、経国済民のわざまで武士が担ったのである。武芸しか取りえのなかった男たちがなぜ、国を統治できるまでに成長したのだろうか。

 こんなことを考えたのは、世界遺産登録を目指す鎌倉の歴史を扱う特別展を見たのがきっかけだった。「武家の古都」をテーマに神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)、同金沢文庫(金沢区)、鎌倉国宝館(鎌倉市)の3館で開催中(いずれも12月2日まで)の催しである。

 ◆800年の古都を体感

 治承4(1180)年10月6日、源頼朝は東国の兵を率いて鎌倉に入った。平氏に支えられた西の朝廷に対し、地域政権を打ち立てた瞬間であった。以後、鎌倉はこの東国政権の「首都」として整備されてゆく。

 3会場には頼朝ら幕府ゆかりの人物の肖像をはじめ、鎌倉で出土した陶磁器や寺院で守られてきた法具や絵画などが展示されている。多くが鎌倉時代までさかのぼる品で、800年の古都だったことを静かに語りかけている。

 中世の武士というと、力だけがすべて、戦いに明け暮れる姿を想像するかもしれない。確かに家子郎党を組織し、武芸を練ることは基本だった。しかし、毎日戦っているわけではない。

 農繁期の作業や親族との付き合い、祭礼にも時間を割かねばならない。所領の争いもある。最低限の決まりごとが必要とされ、前例に学び、他人と協調する行動が求められるようになった。

 鎌倉幕府で最初にこのことを自覚し、対処したのは第3代執権、北条泰時であった。貞永元(1232)年、最初の武家成文法として「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」(貞永式目)を制定し、御家人の訴訟のルールなどを定めた。

 泰時はこの事業を「淡海公(たんかいこう)の律令に比ぶべきか」と、藤原不比等の養老律令に匹敵する関東の宝、と胸を張っている。

 ◆家康も「歴史」に学んだ

 幕府は歴史書の編纂(へんさん)にも着手した。『吾妻鏡』である。頼朝の挙兵から蒙古襲来前の文永3(1266)年まで86年間(うち12年分は欠損)が残されている。「武家政権成立の歴史的正当性」を訴える歴史観が漂う。

 その後の武家の棟梁(とうりょう)は吾妻鏡を熱心に読んだ。徳川家康などは枕頭(ちんとう)に置き、さまざまな写本を集め出版までさせている。神奈川歴博会場には、後北条氏によって書写された「北条氏本」(国重文)が並び、鎌倉武者の行動に学ぼうとした姿勢が伝わってくる。

 家康が愛読したのは吾妻鏡だけではなかった。『源氏物語』や『日本書紀』など、その蔵書は膨大だったと伝えられている。天下静謐(せいひつ)ののちは、武器よりも書物こそが統治の最良の手段になると知っていたのだ。

 ◆「天下を治める」覚悟を

 「武士たちは訓練を積んで政治を動かしてゆくようになり、禅による精神修養などによって独特の生き方や作法を身につけた。それは戦国の世を経て“武士道”と称されるスタイルを生み、日本の近代化を進めるうえで人的資源となったのです」

 3展を企画した五味文彦放送大教授(日本中世史)は言う。

 鎌倉幕府の草創期にあっては、朝廷に仕えた文人(官僚)が多く招かれたことはよく知られている。大江広元や三善康信らである。御成敗式目や吾妻鏡の編纂に当たって、文人が果たした役割は見逃せない。だが、東国武者たちも努力したのだ。

 北条泰時は「承久の乱」のあと京都にいたとき、栂尾(とがのお)の高山寺(こうざんじ)にいた名僧・明恵(みょうえ)に師事した。

 --どうすれば天下を治められるのですか?

 こう尋ねた泰時に、明恵は次のように直言したという。

 「まず貴殿が自分の欲望を捨てることだ。そうすれば、天下もその徳に誘われるだろう。天下の人が欲深いなら、それは貴殿の責任で、わが身を恥じられよ」

 中世においては、力がすべての源泉であった。頼朝亡き後、北条氏は権力を握るため比企氏や畠山氏、和田氏ら有力御家人を次々と滅ぼしていった。むきだしの権力欲による武力闘争である。

 しかし一方で、泰時のように政治を担う責任に苦悩した権力者もいた。8代執権・時宗は2度の蒙古襲来に向き合い、文字通り命を縮めた。ことあるたびに「国民のため」と繰り返す現代の政治家に、このような覚悟を求めるのは無理なのだろうか。

                            (わたなべ ひろあき)