台湾「霧社事件」と和の心。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





ねず様のブログ・ねずさんのひとりごと より。




                             高砂義勇隊


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 


台湾で起こった霧社事件、それは日本が統治した台湾における最後にして最大の抗日運動でした。
そしてその事件によって、霧社事件を起こした人々は、最大の親日派となっていったのです。

昭和5(1930)年のことです。
台湾で「霧社事件(むしゃじけん)」というできごとがありました。

日本が台湾を統治しはじめたのが、明治28(1895)年ですから、統治開始から35年目のできごとです。
実はこの事件が、台湾での最大にして最後の抗日事件でした。

事件のきっかけとなったのは、日本人の警察官が、台湾原住民の固有の文化を無視した生活指導を行ったからとか、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したことなどであると言われています。
実際には、これといった明確な大きな事件があったということではなく、小さいストレスの積み重ね(人間関係においては、小さなことが大きなことです)が背景となっていました。

10月7日、
タイヤル族
の村落酋長の息子のタダオ・モーナが、村での結婚式の酒宴の場に、たまたま通りがかった日本人の警察官、吉村巡査を宴席に招こうとして、巡査の手を取りました。

言葉が通じません。
吉村巡査は驚いた。

後日の調書によると、このとき吉村巡査は、
「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ、拒絶セントシテ、握ラレタル手ヲ払ヒ」、手にしたステッキでモーナを2度殴打してしまいました。

結婚式の祝いの席なのです。
これを侮辱と受け取った現地の人たちは、怒りました。
そして吉村巡査を袋だたきにしてしまったのです。

気持ちは、よくわかります。
その場に居合わせたら、私も一緒になって吉村巡査を殴ったかもしれません。

けれど一方で、日本の警察は怖いです。
事件への報復をおそれた村人達は、その恐怖から、先手をとって蜂起しました。

20日後の10月27日には、タイヤル族のリーダーの一人であるモーナ・ルダオを中心として、六つの村から1,200人も人たちが出て、霧社公学校で行われていた運動会を襲撃してしまったのです。

この襲撃で、日本人だけ、140人が殺害されてしまいました。
一方、このとき現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が二人いました。
けれどこの二人は襲撃には参加せず、それぞれ自決されています。

台湾総督府は、やむなく軍を動員し、蜂起に参加した村々へ鎮圧を開始しました。
そして陳圧行動の結果、700人ほどの抗日タイヤル族が死傷し、500人ほどが投降しました。

この事件によって、台湾総督府では、翌昭和6(1931)年1月に、台湾総督、総務長官、警務局長、台中州知事が引責辞任しています。

そしてこのとき日本政府は、反乱を起こしたタイヤル族よりも、日本側関係者に対して、過酷とも言える厳しい処罰を行っています。

さらに日本政府は、台湾総督府の人事を作新し、台湾総督府内にあった現地の人々に対する差別的な政策や行動を行う者をすべて更迭し、台湾人を日本人として、皇民として、等しい地位におくことを理解する者だけを総督府に配置します。

そしてさらに、霧社事件の現場となった霧社村や、一部の住民が移住した清流部落には、莫大な国費を割いて大規模な水田の開墾事業を起こし、さらに農業指導によってこの地の農業生産性を劇的に向上させ、住民らの生活を以前よりも、より一層豊かなものにしたのです。

また、この事件をきっかけに、台湾人であっても、国家に忠誠を示した者は、日本人・台湾人の区別なく顕彰しました。

このため、日台の和合はさらに加速し、大東亜戦争時には、台湾人で、高砂義勇隊に自ら志願する者が、多数出るという状況にまで至っています。

実は、勇名を馳せた高砂義勇隊の
高砂(タイヤル)族
こそが、この霧社事件のときの霧社村の住民達だったのです。
一説によれば、霧社事件における山岳戦で、タイヤル族がとても強かったため、軍が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われています。

とにかく彼らは、強い。
しかも、勇敢です。
耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡る。
人間業とは思えない敏捷さ、獣のような視聴覚と方向感覚、正義感の強さ、曲がった行為を嫌うまっすぐさ。

日本は、大東亜戦争の末期に、台湾総督府を通じて、義勇隊を募集しました。
この志願には5000人もの人が応募しています。
選抜から外された人達の多くは怒り、悔しがり、涙を流し、血判書まで出しています。

そして高砂義勇隊は、日本の正規軍を超える戦闘力や忠誠心で、世界最強といわれたイギリス軍のグルカ兵と互角に対戦し、その勇猛さとジャングルにおける知識の豊富さで日本軍を支えました。

高砂義勇隊の軍紀の厳正さは、日本軍の正規軍さえも凌ぐといわれたほどです。
純真無垢な心と自己犠牲の精神は、日本の将兵たちの胸を強く打ち、日本軍とも瞬く間に信頼と友情、尊敬の念を芽生えさせています。

このようなエピソードがあります。

ある高砂義勇隊員は、前線で飢餓に苦しむ日本人の戦友のため、自分自身も空腹であるにもかかわらず、山を越えて米を取りに行きました。

けれど、前線に戻る途上で力尽き、死んでしまったのです。
その遺体は、背中に米50キロを背負ったままだったそうです。
自らは、一粒も手をつけることなく餓死したのです。

高砂義勇隊の隊員は、学校と軍隊で日本精神をたたき込まれました。
彼らは、いまもはっきりといいます。
「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」

高砂義勇隊の隊員であった簡福源さんは、終戦で日本兵が日本に帰るときの思い出をこう語ります。
「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと 内地の人とは違う と言われた」
「ああ僕は日本人じゃなかったのか」

簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだそうです。
それほどまでに、自分たちは日本人である、という意識が強かったのです。

戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行いました。
そして「霧社事件」を、「日本の圧政に対する抗日運動をした英雄的活動」と讃え、蜂起の指導者たちにも「抗日英雄」の称号を与えました。

そしてさらに、霧社にあった日本人の殉難記念碑を破壊し、蜂起の参加者らを抗日英雄として讃える石碑まで建てたのです。

長い月日が流れました。
けれど、歴史には潮目が変わるときというものがあります。
1990年代以降、台湾民主化の動きが高まると、台湾史への再認識がブームとなったのです。
そして台湾にもとからある文化への再評価が行われるようになる。

なかでも「霧社事件」は、日本による台湾の近代化が進む過程の中で、もとからある台湾人のアイデンティティと、日本型近代的統治との融合に、非常に大きな役割を果たした意義ある事件と、多くの人々が再評価するようになったのです。

つまり、日本による近代化政策をただ鵜呑みにする、いいなりなるのではなく、主張すべき文化や伝統は、ちゃんと主張し守り抜く。
そのうえで、相互の信頼関係を構築し、力を合わせて近代化を促進するという、日台双方にとって前向きな結果をもたらした、日台の建設的和合の象徴的事件として位置付けられるようになったのです。
これこそがまさに、台湾人の民度の高さです。


そして1992年には、地元リーダーの周愛子さんと日本の戦友会の奉賛によって、大東亜戦争中に日本軍の一員として南方戦線で戦った高砂義勇隊の慰霊と、その誇るべき勇猛果敢な民族精神を後世に伝えようと、「高砂義勇隊記念碑」が台北県烏来に建立されたのです。

けれど、この記念碑は一時、地元の管理会社の倒産によって、撤去の危機に陥ってしまいます。
そのときは、産経新聞の呼びかけによって集まった日本からの義捐金で、地元の県有地に移設されることになりました。

そしてあらたな碑の除幕式が行われたのが、2006年のことです。


                           高砂義勇隊記念碑

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ところが、この「親日」慰霊施設の完成に対し、反日意識を抱く、戦後に台湾に居住するようになった支那人達の政治勢力が眼をつけます。
同年1月月17日、台湾の中国時報が、記念碑への非難報道を、なんと一面トップで、行ったのです。
記念碑にある日本語の碑文や、周辺に建つ日本人奉納の歌碑や日章旗を指摘して「日本軍国主義を賛美している」と騒ぎ立てたのです。

そして翌18日には支那人の周錫県知事が、この記念碑について
「24日までに撤去せよ」との命令を出したのです。

理由は「建碑の申請手続きに不備があった」というものです。
あきらかな嫌がらせです。

しかし、申請を受理したのは県自身であり、しかも実行不可能な短期間での撤去命令です。
要するに「日数がなくて撤去などできない」という状況に追い込んだ上で、行政上の力で、記念碑を取り壊そうとしたのです。
そして24日には、撤去作業が強行されました。

高砂の人々は怒りました。
で、どうしたかというと、まさに体を張って猛抗議したのです。

このため、記念碑の撤去は免れます。
その代わり、行政側からの命令で、碑文をベニヤ板で覆って読めないようにされてしまいます。
さらも歌碑や、付属の碑、日の丸などは、ことごとく排除されてしまいました。

                        ベニヤ板を貼られた記念碑


草莽崛起:皇国興廃此一戦在各員一層奮励努力。 


こうした台湾国民等政府の横暴に、もとからいる台湾の人々は、冷静に対応します。
識者らによって碑文の文面などをよくよく検証してもらい、内容が決して「軍国主義賛美」でないことを、証明してみせたのです。

また問題となった日章旗にしても、これは台湾総督が義勇隊に贈ったものの複製で、「隊旗」であることが明らかになりました。
そして台湾の人々は、石碑の撤去処分と石碑への原状回復を求める訴訟を起したのです。

2007年12月、台湾高等行政法院は訴えを却下しました。
けれど、2009年年3月24日、最高行政法院は、その判決について差戻を命じます。
そして再審の結果、処分撤回の判決が下ったのです。

そして県も、地元民と和解し、記念碑をそのままに、公園を高砂族(タイヤル族)の文化をテーマにした観光スポットとして整備することを約束し、その工事は2009年8月に竣工の運びとなりました。

これが何を意味するかというと、日ごろ政府に従順な(元日本人である)台湾の住民の心を軽視し、なめてかかった支那人国民党政府の敗北です。
しかし、現時点で、県はいまだに、撤去した付属の歌碑などを返還していません。

県は「返還する」とは言うけれど、傲慢にも「お前たちが受け取りに来い」というのです。

現地のマカイ・リムイ氏たちは、
「県が不法にも持ち去ったのだ。それに従っては、我々の立場がなくなる」として、あくまでも原状回復を求める、つまり県に「もと通りにさせる」。
そのため、「また訴える」といいます。

台湾では、国民党が政権をとったため、「さらに態度が大きくなった」(マカイ氏)と言う戦後に台湾に住み着いた支那人勢力と、かつて南方戦線で雄雄しく戦った元日本人だった台湾の勇士たちの、民族の誇りをかけた戦いが、いまなお続行中です。

支那や朝鮮人が支配する世界というものは、傲慢と略奪、殺人、違法行為の蔓延する、まさに人類の悪の象徴です。
これに対し、日本の心は、どこまでも和と相互の信頼と発展、進歩と平和の心です。

台湾のみなさんは、いまも戦っておいでなのです。
そして台湾のみなさんにとっても、世界にとっても、そして何より日本人にとって、日本が日本を取り戻すことは、平穏と安寧をもたらす最大の鍵となっています。

人には心があります。
その心と心が通じ合ったとき、本当の意味での信頼と交流が生まれます。
それが「人であることの証」です。

100年経ってなお、誠意や良心が相互理解に至らないなら、その相手は「人」ではないということです。
私は、支那や韓国の政治体制は別として、個人のレベルなら、多くの人々には、ちゃんと「心」があると思っています。

ならば、事実を正しく再検証し、その「人としての心」をもって、人の国家を自ら手で築くのは、支那なら支那人、韓国なら韓国人の仕事です。

支那人も韓国人も、その「心」に目覚めるときがきている。
でなければ、再び争いの世となってしまう。
そのように私は思います。