夕刻の備忘録 様のブログより。
この良く知られた言葉を、「Get out!」と言えない全ての日本人に捧げよう。「出て行け!」とも言えず、「出て行く!!」とも言えない。一連の反日暴動の最大の被害にあった百貨店の社長にして、未だ全く「反省」していない。店舗の再開のみならず、次の展開にまで言及している。呆れ果てるしかない。
当地の幹部が謝罪に訪れ、「二度とこのようなことは無い」と確約したことによる、というのである。「二度と無い」とは一体どういう意味だろう。「一度で充分」ではないのか。「一度でも絶対に許せない話」ではないのか。こうなってくると、もはや「経営判断」とも「民間友好」とも形容しがたい。単なる「信仰」ではないのか。「妄想」ではないのか。
世界中のどの国も、歴史上のどの国も、近隣国との関係に悩んできた。利害が直接に関わる隣国との関係に、「幻想」を持った民族は、「現実」に裏切られて滅んでいった。まさにこれこそが現実の冷徹な法則であり、人類の歴史である。何故、この切実な歴史に学ぼうとしないのか。何故、己の小さな経験を元に、会社経営を危機に陥れ、社員の安全をも脅かすような決断を繰り返すのだろうか。
★ ★ ★ ★ ★
多くを経験した者は、それを元に相手を説得しようとする。特殊な経験をした者は、その特殊性の上に胡座をかいて、「私は実際に体験したので間違いない」と繰り返す。誰にも出来ない経験をした者の発言は、「誰にも反論不能だ」と言わんばかりである。
我々は「経験者の言葉」を信用しすぎる傾向がある。それに反論することを躊躇う「空気」がある。「実際に経験していない奴は黙ってろ」と声を挙げられて、「愚者の経験に何を学べと言うのか!」と切り返せる人は少ない。
しかし、表題のような言葉が既に存在しているのである。「何故、歴史に学ぼうとしないのですか?」ぐらいは、言い返してもよいのではないか。現地に留学した者、駐在員として働いた者、国際試合で転戦した選手やスタッフ、その他大勢の「かの地の体験者」の発言を、何故我々は最重要視しなければならないのか。明らかに非論理的であり、明らかに矛盾しているのに。
企業経営者でも政治家でも、タレントでもスポーツ選手でも、特殊な経験をした者は、それを基軸に自らの「思想らしきもの」を作り、未経験者に説教したがるものであるが、何時までもそんな「安直な商売」を許していては、マスコミの奴隷になっているのと同じことである。
「現地でも全ての人が悪いわけではない」などという余りにも当り前で、話す気力も失わせるようなことを得意気に語る自称知識人達。「政治とスポーツは別だ。私達民間人が、スポーツを通して相互理解を深めることが大切だ」などと暢気に語る筋肉脳達。
とりわけ影響力が強いと思われる彼等「成功者達」が、斯くも幼稚な発言に終始し、「現在進行形の侵略国家」の片棒を担ぐのは、如何に個人の経験が無力であるかの証拠である。彼等は、「個人の経験は、相手国政府により自由自在に作り得る」ことを、ホンの僅かも考えないのであろう。
日頃から彼等は、ある種の「特権の下」で暮らしている。世間に顔が知られているということは、一定の成功の証であり、それは本人が意識するしないに関わらず、「特権」を生み出す。とりわけ、個人の発言がネットを通して大きなうねりとなる今の社会では、多くの企業は、こうした人物を取り込もうと試みる。少なくとも、敵に回したくないと考える。
従って、ラーメン一杯頼んだところで、具は多目になる。車を買えば、オプションが無料になっている。こうした小さな「特権」から、国の命運を左右する「特権」まで、一般の国民とは異なる環境下で生きているのが、所謂「有名人」である。
よって、彼等は狙われる。政治プロパガンダの絶好の対象となる。そして、朝から晩まで作られた人間関係、作られた環境の中で、「真実を決して知ることがない」ように、仕組まれていく。それを愚かにも彼等は「個人の真実の体験だ!」と思い込むのである。かつて、「あの国には一匹も蠅がいない、私がこの目で見たのだから確かです」と必死に語っていた小説家がいた。人を見て、物を見て、社会の裏側を見て、その不条理を書くのが商売のはずの小説家が、この体たらくなのである。
従って、こうした特権とも無縁で、プロパガンダの対象にもならない我々一般国民の方が、歴史の流れを冷静に踏まえた判断が出来るのである。有名人や識者どもの「個人的体験に基づく判断」を有り難がる必要は何処にも無いのである。「遅れた日本」を嘆いて見せ、「国際社会では云々」と、自分の限られた、しかも誰かに操られた体験談を、講演でテレビで垂れ流し続ける彼等からの呪縛を絶つべきである。
マスコミは、彼等の口をして自らの主張を語らせる。即ち、両者は商売上の共闘関係にある。「マスド」からの脱出は、こうした関係を見抜き、安物の体験談に騙されないようにしなければ、決して実現されない。妖怪は己の姿を隠し、他人の内部に入り込んで、その悪辣な企みを実行しようとする。我々が真に頼るべきは「歴史」である。世界最古の歴史を誇る我が国である。頼る歴史に不自由するわけでもあるまい。
当地の幹部が謝罪に訪れ、「二度とこのようなことは無い」と確約したことによる、というのである。「二度と無い」とは一体どういう意味だろう。「一度で充分」ではないのか。「一度でも絶対に許せない話」ではないのか。こうなってくると、もはや「経営判断」とも「民間友好」とも形容しがたい。単なる「信仰」ではないのか。「妄想」ではないのか。
世界中のどの国も、歴史上のどの国も、近隣国との関係に悩んできた。利害が直接に関わる隣国との関係に、「幻想」を持った民族は、「現実」に裏切られて滅んでいった。まさにこれこそが現実の冷徹な法則であり、人類の歴史である。何故、この切実な歴史に学ぼうとしないのか。何故、己の小さな経験を元に、会社経営を危機に陥れ、社員の安全をも脅かすような決断を繰り返すのだろうか。
★ ★ ★ ★ ★
多くを経験した者は、それを元に相手を説得しようとする。特殊な経験をした者は、その特殊性の上に胡座をかいて、「私は実際に体験したので間違いない」と繰り返す。誰にも出来ない経験をした者の発言は、「誰にも反論不能だ」と言わんばかりである。
我々は「経験者の言葉」を信用しすぎる傾向がある。それに反論することを躊躇う「空気」がある。「実際に経験していない奴は黙ってろ」と声を挙げられて、「愚者の経験に何を学べと言うのか!」と切り返せる人は少ない。
しかし、表題のような言葉が既に存在しているのである。「何故、歴史に学ぼうとしないのですか?」ぐらいは、言い返してもよいのではないか。現地に留学した者、駐在員として働いた者、国際試合で転戦した選手やスタッフ、その他大勢の「かの地の体験者」の発言を、何故我々は最重要視しなければならないのか。明らかに非論理的であり、明らかに矛盾しているのに。
企業経営者でも政治家でも、タレントでもスポーツ選手でも、特殊な経験をした者は、それを基軸に自らの「思想らしきもの」を作り、未経験者に説教したがるものであるが、何時までもそんな「安直な商売」を許していては、マスコミの奴隷になっているのと同じことである。
「現地でも全ての人が悪いわけではない」などという余りにも当り前で、話す気力も失わせるようなことを得意気に語る自称知識人達。「政治とスポーツは別だ。私達民間人が、スポーツを通して相互理解を深めることが大切だ」などと暢気に語る筋肉脳達。
とりわけ影響力が強いと思われる彼等「成功者達」が、斯くも幼稚な発言に終始し、「現在進行形の侵略国家」の片棒を担ぐのは、如何に個人の経験が無力であるかの証拠である。彼等は、「個人の経験は、相手国政府により自由自在に作り得る」ことを、ホンの僅かも考えないのであろう。
日頃から彼等は、ある種の「特権の下」で暮らしている。世間に顔が知られているということは、一定の成功の証であり、それは本人が意識するしないに関わらず、「特権」を生み出す。とりわけ、個人の発言がネットを通して大きなうねりとなる今の社会では、多くの企業は、こうした人物を取り込もうと試みる。少なくとも、敵に回したくないと考える。
従って、ラーメン一杯頼んだところで、具は多目になる。車を買えば、オプションが無料になっている。こうした小さな「特権」から、国の命運を左右する「特権」まで、一般の国民とは異なる環境下で生きているのが、所謂「有名人」である。
よって、彼等は狙われる。政治プロパガンダの絶好の対象となる。そして、朝から晩まで作られた人間関係、作られた環境の中で、「真実を決して知ることがない」ように、仕組まれていく。それを愚かにも彼等は「個人の真実の体験だ!」と思い込むのである。かつて、「あの国には一匹も蠅がいない、私がこの目で見たのだから確かです」と必死に語っていた小説家がいた。人を見て、物を見て、社会の裏側を見て、その不条理を書くのが商売のはずの小説家が、この体たらくなのである。
従って、こうした特権とも無縁で、プロパガンダの対象にもならない我々一般国民の方が、歴史の流れを冷静に踏まえた判断が出来るのである。有名人や識者どもの「個人的体験に基づく判断」を有り難がる必要は何処にも無いのである。「遅れた日本」を嘆いて見せ、「国際社会では云々」と、自分の限られた、しかも誰かに操られた体験談を、講演でテレビで垂れ流し続ける彼等からの呪縛を絶つべきである。
マスコミは、彼等の口をして自らの主張を語らせる。即ち、両者は商売上の共闘関係にある。「マスド」からの脱出は、こうした関係を見抜き、安物の体験談に騙されないようにしなければ、決して実現されない。妖怪は己の姿を隠し、他人の内部に入り込んで、その悪辣な企みを実行しようとする。我々が真に頼るべきは「歴史」である。世界最古の歴史を誇る我が国である。頼る歴史に不自由するわけでもあるまい。