大津皇子の変。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【決断の日本史】686年10月2日






「皇位争い」の悲劇、再び


 奈良時代までの皇位継承をめぐる争いは、敗者は命で償うしかない苛烈なものだった。斉明天皇4(658)年11月、亡き孝徳天皇の嫡子・有間皇子(ありまのみこ)が謀反の疑いをかけられ、中大兄皇子によって粛清されている。

 そして28年後、同じような悲劇が起きた。朱鳥元(686)年9月9日の天武天皇の崩御から1カ月もたたない10月2日のことである。天武の第3皇子・大津皇子が謀反の容疑で捕らえられ翌日、訳語田(おさだ)(奈良県桜井市)の自邸で自殺させられた。24歳であった。

 天武の後継候補はこの時点で、天智天皇の皇子を含め6人いたとされる。最年長は高市(たけち)皇子だが、母親の身分が低いため除かれ、天武第2皇子の草壁(くさかべ)と大津皇子に絞られていた。

 草壁の母は●野(うの)皇后、つまりのちの持統天皇。大津の母は●野の姉、大田皇女(おおたのひめみこ)であった。血筋は同じだが草壁が1歳年上で、しかも大田皇女は大津が5歳のときに亡くなっていた。

 後見役のいない不利は大きかったが、大津皇子は文武に秀でていた。朝廷内には温和な草壁よりも剛胆な大津がふさわしいとする声があり、●野皇后は危機感を強めていたようだ。

 「『日本書紀』には、9月24日に大津皇子が皇太子(草壁)に謀反を企てたと書かれています。天皇の遺骸の前で誄(しのびごと)を述べたとき、草壁を蔑(ないがし)ろにする内容だった可能性があります。しかもこの直後、大津は朝廷に届けず伊勢に赴き、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)だった姉の大来(おおく)皇女に会っています。この行為も罪に問われたのではないでしょうか」

 古代史研究家の和田萃(あつむ)・京都教育大学名誉教授は推測を加えて言う。 《うつそみの人なる我や明日よりは 

  二上山(ふたがみやま)を弟世(いろせ)と我見む》

 大来皇女が大津皇子をしのんで詠んだ歌は『万葉集』に収められ、いまも私たちの胸を打つ。

                                     (渡部裕明)

●=慮の心を皿、右に鳥