拉致問題に二度直面した中山恭子。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







中山成彬オフィシャルブログ・立て直そう日本~この国を守る覚悟を~ より。





9月17日の産経新聞「正論」欄に妻、中山恭子の「母の写真見つめたヘギョンさん」の記事が出ている。金正恩体制に変わった今が拉致問題の解決に向けたチャンスであり、政府の最重要課題として取り組むよう求めている。

 その中に、1999年の8月にキリギスで起きた、日本人の鉱山技師4名がイスラム原理主義グループに拉致された時のことが書いてある。その記事を見て当時のことを思い出した。 

 その年の6月、ウズベキスタン兼タジキスタンの特命全権大使に任命された妻をウズベキスタンの首都、タシケントまで送っていった。それから2ヶ月も経たない8月のある日、宮崎の自宅で熟睡中の私に午前2時ごろ電話が掛った。何事だろうかと受話器を取ると、妻の声で、「キリギスで起きた鉱山技師4名が、隣のタジキスタンに連行されている。日本の外務省は発生地のキリギス政府に任せてあるから、現地の大使は動くなという指令を受けているが、犯人側は、日本政府が交渉の正面に出てこなければ明日から1人づつ殺すと言っている。どうしたらいいだろうか」という内容であった。

 とっさの事で、私は事件の内容はよく分らなかったが、「外務本省が何と言おうと、外国にいる日本人の命を守るのは任地の大使の仕事ではないか、1%でも救出の可能性があるのなら、最後までやってみるべきだ」と答えた。いつもは冷静、沈着な妻だが、その時の電話の声はさすがに必死な響きで苦しい立場にあることが察せられた。

 それから約2ヶ月、本省の指令に背いて辞表を懐にした中山大使と数少ないウズベキスタン大使館員の不眠不休の必死の救出活動が続いた。ウズベキスタンと日本は4時間の時差があり、仕事から帰宅した妻が電話する時間は日本では真夜中で私は睡眠不足になりそうだった。しかし、大使のことを考えればそんなことはいっておれない心境で、外務省や官房副長官に面会を求めて大使の行動に理解と協力をお願いした。幸い、犯人達に強い
影響力を持つウズベキスタンのカリモフ大統領の強い支援等により解放に結びつけることが出来た。

 当時はまだ、タリバンという言葉も世に知られていない頃であったが、犯人達はタリバンの過激派の一派であった。最後に、中山大使が犯人側と直接交渉に出かけるという電話を聞いて私は大変心配した。ヌルという司令官に会うために、山を登り、洞窟のような場所に上って行ったという。何百人というひげ面の男達が銃をかまえて立っている中で、一緒に行った男性達は途中で足がすくんで前に歩けなくなったのに、中山大使は通訳と2人、司令官の前に進んで行って直談判したという。いざとなると女性の方が度胸があるのかなと思ったりした。

 ヌルは日本の丹前のような服を着ていて、肥満のせいか体の前がはだけそうになるのを(女性の前だったせいか)一生懸命かき合せようとしておかしかったと妻は後で話してくれた。会談の最初にヌルが「自分はアフガニスタンにいたとき、日本の「おしん」のビデオを見たことがある」という話から始まり、空気がなごんだという。

 この「おしん」は30年前のNHKの朝の連ドラであったが、妻が国際交流基金の常務理事をしていた時、CDを作って世界各国に発送したものであった。そういう人達まで目にしていたのかと国際交流の大切さを思った。尚、このヌル司令官はその後の戦いで死亡したと伝えられている。

 そして、2ヶ月後、人質はやっと解放されることになったが、外務省はキリギスで解放されたことにするために、長い拘束で疲れ切っている人質を歩かせたり、飛行機に乗せたりしてキリギスまで運び、キリギス国内で釈放されたようにつくろった。人の命や健康よりも最後まで面子にこだわる外務官僚の体質に愕然とした思いが今も残る。

 その恭子がウズベキスタンから帰国早々、当時の福田官房長官から、「ギクシャクしている外務省と拉致被害者家族との中に入って融和を図って欲しい」という話が飛び込んだ。妻は福田赳夫元総理大臣に若い頃からお世話になっていたこともあり、福田康夫長官と面識があった。私は福田長官はいい人物に目を付けたなと感心した。私はキリギスの人質事件の時の外務省の対応を知っていたので、中に入ると苦労することも分っていたが、逆に外務省の体質をよく知っている者として、「最後まで拉致被害者の側に立って仕事をするように」とアドバイスして、参与の就任を後押しした。

 その後のことはマスコミに報道されたようなことであったが、政府内で最初は孤立したが、「拉致はテロだ」と断言し、絶対に北朝鮮には返すべきでないと主張する妻に安倍官房副長官が同調し、政府もようやく覚悟を決めて日本国として5人を返さないと発表した。

 その後、曽我ひとみさんが北朝鮮に残してきた家族と何処で会うかが問題になったことがあった。それこそ、たまたま宮崎の自宅でいつもはそんなに早く目覚めることはない私が、朝5時のNHKニュースのスイッチを入れたら、「曽我ひとみさんが北京で会うのに反対しているのは中山参与だけだ」というニュースが流れた。これは大変だと「起きてくれ」と祈るような思いで東京の妻に電話したら、出てくれた。「大変なことになっている。北京で会ったら睡眠薬を飲ましてでも強引に北朝鮮へ連れて行かれる。そして、私達は家族で相談して北朝鮮で住むことを決めたと記者会見させられ、一件落着となってしまうのが落ちだ。早く何とかしなければ」と話し合った。早速、妻は曽我ひとみさんに連絡をとり、曽我さんも北京以外で会いたいというメッセージを出し、最終的にジャカルタで会うことになった。

 ジャカルタでもいろいろなことがあったが、安倍官房副長官は常に曽我さん側に立って尽力され、家族全員が日本に来ることができた。ジャカルタでもスリルの連続であったという。後日ブログに書く時があると思う。

 中山恭子は、大蔵省入省以来、仏留学からワシントン勤務、国際交流基金、そしてウズベキスタン大使と国際的な経験を積んできた。特にソ連邦から独立したばかりのウズベキスタンに勤務し、一党独裁の国家は盗聴器や隠しカメラが設置されるなど厳しい監視体制が敷かれていることを体験した事が、北朝鮮を相手にした時に役に立った。人材を育てることの重要さを思う。

 今、竹島や尖閣の問題等で日本は難しい状況にあるが、国土を守り、国民を守るのは政府の最重要問題である。外交や防衛は素人には出来ない。外交官や防衛に当る者はもちろん、国政に携わる者は全てその使命をしっかり認識した、愛国者であり、国士であって欲しいと切に願っている。





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