小泉純一郎首相の訪朝をスクープしたのは誰?
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120923/kor12092307000000-n1.htm
2002年8月30日午前、そのニュースは流れた。「日本の小泉純一郎首相が9月17日、北朝鮮の金正日総書記と平壌で日朝首脳会談を行うことが分かった」-。韓国夕刊紙「文化日報」の東京発のスクープだった。この一報がソウルから東京に伝わると日本は大騒ぎになった。日本メディアは小泉訪朝の気配すらとらえていなかったからだ。同日昼には日本政府が事実と認め、午後3時から福田康夫官房長官が正式発表した。スクープ秘話を紹介する。(久保田るり子)
1本の電話
その日は金曜日だった。午前9時前に東京支局に出勤した李秉●(イ・ビョンソン)特派員(37)=当時=は週末ゴルフの相談しようと、ある韓国企業の友人に電話をかけた。
「ところで、小泉首相が訪朝して金正日氏と近々、日朝首脳会談をする。正式発表は間近だということだ」
友人の言葉に李氏は飛び上がった。事実なら大ニュースだ。夕刊の通常の締め切り時間まで30余分。締め切りを過ぎて、ぎりぎりで原稿を突っ込むにも1時間しかない。
「ありとあらゆるルートで確認作業に入った。あのとき私は幸運に恵まれていた。情報源は言えないがファクト(事実)の確認が取れた。そのあとは早かった。最終的には日本の関係者の裏付けも取った。首脳会談は9月17日で、日帰りであることが分かったんです」と、李氏は10年前のことを打ち明ける。
記事は、インターネットの速報で即座に日本メディアに伝わった。「本当か!」李氏の携帯電話は日本メディアの知人たちからの電話で鳴り続けた。
正午前、事実確認した日本メディアが一斉にニュースを流した。小泉政権は急遽(きゅうきょ)、午後3時の発表を決めた。
「韓国政府が私にリークしたと思ったメディアも少なくなかったようだが、そうではなかった。忘れられない1日となった。あのときは、これは歴史的な転換点だ、トップ会談で一括交渉かと思った」と、李氏は振り返る。
「韓国は日朝首脳会談に期待していた」
韓国政府はすでに日朝首脳会談について詳細に把握していた。韓国は2001年秋から行われていた日朝の秘密接触に「ただならぬ関心」(情報筋)を持ってフォローしていたからだ。
当時の韓国は、「太陽政策」で北朝鮮への融和路線を推進していた金大中政権だ。ブッシュ米政権(当時)は、2002年はじめの一般教書演説で北朝鮮をイラン、イラクと並べて、米国の脅威となりうる「悪の枢軸」と呼び、北朝鮮に強硬な態度を示していた。このため、金大中氏は日朝が和解することが対米牽制(けんせい)になると考えていた。
2002年の夏、ブッシュ政権は米朝対話の再開問題でケリー国務次官補の北朝鮮派遣を計画していた。だが、6月15日、南北の海上の境界線である北方限界線(NLL)付近で、韓国側が侵入した北朝鮮艦艇を追い出そうとして銃撃戦となった(第1延坪海戦)。半島情勢は一気に緊張し、ケリー訪朝は延期された。
当時の韓国内の空気を韓国外交安保研究院、尹徳敏教授はこう解説する。
「金大中政権は日朝交渉の進展に前向きだった。当時の韓国政府高官は、2002年10月のケリー訪朝時に北朝鮮が認めたとされるウラン濃縮計画も、米国のネオコン(米新保守主義、共和党タカ派)による“でっち上げ”と主張していたほどだ。ネオコンを警戒する金大中政権の政府高官は『米国は韓国、北朝鮮、日本が対立していたほうが都合がいいのだ』と公言していたほど、対米不信を高めていた」
金大中政権は小泉訪朝を「日本の東アジア外交における成果」と歓迎していたという。日本人拉致問題に関しても「金正日総書記が謝罪し一部の人間を一時帰国という形で帰したことは成功」(同)との見方で、南北首脳会談(2000年6月)に続き、日本が日朝首脳会談を実現したことで「米国の対北強硬政策を和らげることが可能」と期待したという。
10年目の感慨
しかし、日本人拉致事件に関する北朝鮮の「5人生存、8人死亡」発表の衝撃と波紋が一気に韓国の期待をしぼませていった。李秉ソン氏は、この様子を東京支局から韓国に報じ続けた。
李氏は「拉致を認めた北朝鮮は(日朝間の対立構図の)終結シナリオを描いたのだと思うが、日本世論の反発は強かった。日本人拉致問題の解決は本当に困難だ。10年経っても日朝関係はまったく進展していない」と語る。
現在、韓国のポータルサイト「ダウム・コミュニケーション」幹部で、引き続き日本ウオッチャーとしても活躍中の李氏。あの日のスクープの顛末(てんまつ)と、その後の日朝、日韓、南北関係を、いま感慨深く思い出している。