【決断の日本史】
大化改新の幕開け「乙巳(いっし)の変」(645年)から2年後、越後国沼垂評(ぬたりのこおり)(新潟市東区付近)に「渟足柵(ぬたりのき)」が設けられた。柵とは文字通り周辺に城柵(じょうさく)をめぐらせた、大和朝廷に服属しない北方蝦夷(えみし)に対する軍事施設である。
当時の朝廷を率いていたのは孝徳天皇と中大兄皇子。渟足柵の設置には、どのような意味があったのだろう。今泉隆雄・東北歴史博物館長(日本古代史)は次のように言う。
「文献上は渟足柵しか出ていないが、実は太平洋側でも同様の動きがあった。仙台市太白区(たいはくく)の郡山遺跡で、7世紀半ばに建設が始まり、武器を修理した鍛冶工房もあって、軍隊が駐屯した大規模な役所と分かりました」
日本海側の渟足柵と、太平洋側の郡山遺跡。これが当時の大和朝廷の最前線だったのだ。朝廷はここに「柵戸(きのへ)」と呼ぶ移民(屯田兵)を置いて蝦夷との交渉にあたった。
渟足柵設置の翌大化4(648)年には、新たに約40キロ北の村上市岩船神社付近に「磐舟柵(いわふねのき)」が設けられ、フロンティアは北上する。日本海側の城柵は8世紀半ばには、山形を経て秋田県にまで到達したのだった。
渟足柵などからの版図拡大作戦には、船団が大きな役割を果たした。『日本書紀』には、斉明天皇4(658)年から6年にかけて、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が大船団を率いて秋田や津軽に遠征した記録がある。船団は太平洋側からも漕ぎだした可能性が大きい。
「中大兄ら改新政府が強力に領土拡大政策を進めたのは、東アジアでの国際的な緊張を反映していました。唐や朝鮮半島の新興国・新羅に対抗するため、強い中央集権国家を作り上げる必要があったのです」(今泉館長)
渟足柵の設置は、以後約150年間にわたって続く「対蝦夷戦争」の幕開けとなったのである。
(渡部裕明)