近世万葉学の金字塔。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






【消えた偉人・物語】鹿持雅澄「雅澄の研究」

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120908/art12090807410001-n1.htm






国定修身教科書(第5期)に「雅澄の研究」という文章が載せられている。雅澄とは国学者の鹿持雅澄(かもち・まさずみ)(1791~1858年)のことである。全生涯を万葉集研究にささげ、近世万葉学の集大成ともいうべき『万葉集古義(こぎ)』137巻を書き上げた人である。

雅澄は青少年期に漢学、国学を学び、20歳頃、古道究明のために万葉研究の志を立てたといわれている。しかし、雅澄は生涯微禄で窮乏を極め、その研究は困難を強いられた。教科書はその様子を、次のように記している。

 「まづしい家に生まれたので、勉強をしようにも、本をもとめることができません。雅澄は、知合ひの人から本をかりて来ては、熱心に読みふけりました。家の屋根がいたんでも、つくろふことができず、雨の降る日には、もらないところに、机の置場所を移しながら、研究を続けました」

 このように貧困で、また土佐という辺境の地に暮らしていたので、江戸や京都などに遊学するという機会も一生得られなかった。学者にとってはまことに恵まれない環境下にあったが、一徹向上の研究心によって「万葉学史上不滅の金字塔」(尾形裕康『万葉学の大成-鹿持雅澄の研究』)と評される『古義』が著されたのだった。しかし、この驚異的な大著は雅澄没後も広く世に知られていなかった。刊行されたのは、それから21年後の明治12年のときである。教科書はこれを次のように記して話を結んでいる。「明治天皇は、雅澄の研究についてお聞きおよびになり、かしこくも、大御心(おおみこころ)によつて、『万葉集古義』が、宮内省からしゆつぱんされることになりました。かうして、雅澄の心をこめた大研究が初めて全国に知られ、光をあらはすことになりました」

 出版された『古義』は、明治43年にドイツ・ライプチヒ大学の研究所に日本研究の代表的資料として寄贈された。かつて南海の辺陬(へんすう)に埋もれていた「雅澄の研究」の“光”は、こうして遠く西洋にまで輝きわたっていったのである。

                         (皇學館大学准教授 渡邊毅)

 



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