スポーツカー狂が蘇らせたトヨタの名車、
平均年齢71歳の挑戦。
トヨタ自動車が半世紀前に開発した小型スポーツカー「パブリカスポーツ」が今夏復元された。携わったのは同社OBや愛好家ら5人。設計図面も、器具もなく、情熱だけを頼りに手弁当で5年越しのプロジェクトを完成させた。平均年齢71歳、スポーツカー狂たちの奮闘記だ。
よみがえる情熱
「これはパブリカスポーツでは」。平成19(2007)年、トヨタOBの諸星和夫氏(71)は、知人でデザイン開発会社社長、安藤純一氏(63)のスタジオに置かれた模型に思わずくぎ付けとなった。
2つの大きな丸い目玉とゆるやかな流線形のフォルム-。昭和37(1962)年、全日本自動車ショーに出展されたときの記憶が鮮明によみがえった。
学生だった諸星氏はパブリカスポーツを見て「その完成度、欧米車にもない独自性」に圧倒された。トヨタに入社したのも、同車にあこがれたからだ。
「学校を抜け出して同車を見学した」と熱っぽく語る安藤氏。その言葉と飾られた模型に、諸星氏の中でかつての情熱がわき起こってきた。「パブリカスポーツを復元しましょう」。
集う“5人の侍”
プロジェクトのリーダーには諸星氏が就任した。資料はほとんど残されておらず、設計図面もない。当初手がかりは同車の数枚の写真だけで、諸星氏はこの写真をもとに手書きで5分の1モデルを作図する。
プロジェクトスタートとともに、さまざまなメンバーが集まり始めていた。同車を元に開発された「トヨタスポーツ800」(ヨタハチ)製作にかかわった元トヨタ子会社技術者の満沢誠氏(82)▽模型製作会社社長の小森康弘氏(75)▽三次元測定機開発会社社長の上田俊昭氏(64)。中核となった5人だ。
「模型製作者の眼力が問われるな」。5分の1モデル車製作を任された小森氏は思った。写真に加え、全長、全幅などのデータのみが頼りで日夜、写真と首ったけになった。作り上げたモデルを諸星氏の書いた図面と合わせたら、寸分の狂いもなくぴったりと合った。2人の職人技が響き合ったのだ。
その後、満沢氏がパブリカスポーツの現物図面を見つけ出し、プロジェクトは大きく動く。社内教育用に使いたいとトヨタも応援し、当時の作業道具などの提供を受けた。「実寸大モデル」「実車」製作へと進んだ。
作り方は当時の方法を踏襲。細かな板金作業で車体を組み付けていった。「カーボンファイバーで作ってしまう現代において板金は大変。50年前の製作者を改めて尊敬した」と安藤氏はいう。コンピューター設計で変更が自在のため、「とりあえずこうしよう」ができる現代。一方、手作業設計で考え抜いた末につくった過去。「考えた時間だけ製品に重みが出ていたのでは」(諸星氏)。
満沢氏は「クルマ好きのおろかな連中の集まり。ボランティアだからこそできた。スポンサーがいたらいいなりの仕事しかできなかった」と笑う。
スポーツカー復権
パブリカスポーツは、トヨタスポーツ800やカローラの製作指揮をとった同社伝説の技術者、故長谷川龍雄氏が中心となって開発した。
700ccの小型車で設計速度150キロを達成するため、表面積や重量を抑えるなど空気力学に徹底してこだわった。戦前、戦闘機の設計を手がけた経験が生かされており、航空技術を応用し、自動車業界のレベルを上げようと図っていたことがうかがえる。
諸星氏は「スポーツカーは馬と同じ。乗りこなせない方が悪い。お客の声を聞いて作るよりも、クルマはこうあってほしいをストレートに出せばお客はついてくる」と話す。
今春、トヨタは5年ぶりのスポーツカー「86(ハチロク)」を発売した。目標を大幅に上回る受注ペースで、スポーツカーブームを起こしつつある。
満沢氏は現役時代、「スプリンタートレノ」「カローラレビン」といったスポーツカー開発の責任者を務めた。これらはパブリカスポーツの理念を受け継ぎ設計したという。82歳の現在も、BMWのスポーツセダンのハンドルを握る、生涯スポーツカーファンだ。
満沢氏はいう。「若者の車離れといわれるが、スポーツカー志向の人は必ずいる。ブームは再来する」
(内山智彦)
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【パブリカスポーツ】
大衆車「パブリカ」のスポーツモデル。昭和37年の全日本自動車ショーに出展されたコンセプトスポーツカーで同社スポーツカーの源流となった。全長約3・5メートル、全幅約1・4メートル。700ccで空冷2気筒水平対向式エンジンを積む。戦闘機のように車体上部をスライドさせて乗降するなど、ユニークなスタイルが話題になった。
復元されたパブリカスポーツ=愛知県豊田市
車体上部をスライドさせて乗降するパブリカスポーツ=愛知県豊田市
パブリカスポーツ復元を担った諸星和夫氏(右端)ら5人のメンバー=愛知県豊田市