高尾亮一と昭和の名匠たち。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【消えた偉人・物語】新宮殿造営の偉業





わが国の文化を築いた先人の偉業とはどのようなものか、戦後の新宮殿造営にまつわる史実を紹介する。

 じつは明治に創建された宮殿は昭和20年の米軍による大空襲で炎上したため、戦後は宮内庁の庁舎の一部を改装し仮の宮殿としていた。国民が苦労しているのに、新たな宮殿など当分は必要なしというのが昭和天皇のお考えであった。

 しかし、こうした実情を知るにつれ、多くの国民は新宮殿を熱望する。かくて政府は、昭和35年に造営を閣議決定するとともに、宮内庁に皇居造営部を新設して高尾亮一氏が部長に就任。昭和39年6月に起工式の運びとなる。

 現場では卓越した職人芸が繰り広げられた。例えば、手塚茂平氏は多摩御陵や明治神宮などの工事にも当たった練達の石工で、請われて腕を振るった。当時、手塚棟梁(とうりょう)はインタビューに応えてこう語っている。「石には“目”というものがあるのですよ。その“目”にポンと軽くノミをいれると桃太郎が誕生したときのように石がポンと割れる」と。

 熟練を重ねた結果到達した匠の神業である。こうした不世出の名人たちが結集して黙々と仕事に励んだ。

また、最良の木材を調達すべく2年4カ月をかけて全国を縦断、時にはヘリコプターまで飛ばして探し出した。こうして得られた一つ、熊本県人吉地方の杉の名木は、製材すると「美しく乱れた木目があたかも越前和紙の墨流しを見るように現れた」という。

 宮殿の東庭一面に敷き詰める石についてはいわくがある。昭和29年の一般参賀の折、人波が折り重なって負傷者が出る事故があり、陛下はぜひ滑りにくい石を選定してほしい旨を要望された。この陛下のおぼしめしを受け、高尾氏らは東奔西走、高松市に近い石山の安山岩を採用するに至る。

 当時、高尾氏が愛唱した与謝野晶子の歌に「劫初(ごうしょ)より作りいとなむ殿堂にわれも黄金の釘(くぎ)ひとつ打つ」という一首がある。造営に当たった人々は、まさにみずからが手にする一本の釘を打ち込んで昭和の殿堂を築き上げた。真の文化とはそういうものである。
  

                     (中村学園大学教授 占部賢志)




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                                 新年の一般参賀=平成24年1月2日