グローバル化と日本サッカー。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。





前回、柔道のことを書いた。
今回は、サッカーのことを書きたい。

我が国における両者の立場は、「グローバリズム」の視点から見れば、全く逆の関係にある。日本発祥の柔道を世界に普及させる為に、日本柔道界は様々な妥協をし、それを「善いこと」と無邪気に信じた結果、今日の惨状を招いてしまった。

社内が全て英語で充たされれば、それで世界企業になれると考える亡国経営者のように、英名が付き、技も判定も全てカタカナ英語になれば、それで世界に普及する、競技人口が増えることが「世界スポーツ」になることだと考えて、本来なら絶対に飲むべきでないデタラメなルール改変も受け入れてきた。

一方、サッカーは日本が本格的に参加する遙か前から、既に「世界スポーツ」であった。日本は、これに参加するに当たって、グローバル化の美名の下に、日本人に有利になるように、ルールを変えるよう働きかけるべきであった。新規加入を目指す国がそうするように。柔道がそうされたように。

しかし、世界基準は不動である。そして、今さら言うまでもなく、日本はそうした改変を働きかけることもなく、夢想することさえなかった。「決められたルールの中で戦うこと」、それが「日本の常識」「日本の美学」なのである。

柔道だけではない、日本が有利になれば、「世界」は必ずルールの改変を提案してくる。かつてF1でホンダが全勝していた頃、ヨーロッパ勢は如何にしてホンダの戦闘能力を弱めるか、技術ではなく、政治工作としてこれを成し遂げるかに腐心した。F1の歴史は、時のトップチームを如何にして引き下ろすかの権力闘争の歴史でもある。それがヨーロッパ発祥のF1の文化であり、グローバリズムである。同じことがスキーのハイジャンプにもあった。どちらの場合も日本は政治工作に敗れ、自らを不利にするルール改変を受け入れて、様々なアドバンテージを捨てるハメに陥った。

政治は、とりわけ外交は相互主義に基づくべきものである。
こちらが譲る時は、必ず相手にも譲らせる。
こちらが強気で押す時は、必ず相手にも花を持たせる。
そうでなければ、対等の関係とは認められない。
一方的な譲歩は、敗北以外の何ものでもない。
この相互主義に徹せられないのが、今の日本の弱点である。

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サッカー後進国たる日本の、「後進国らしい評論家」は口々にこう言った。日本の選手には「マリーシアが足りない」、狡賢くなければ、サッカーの世界では通用しない。名乗りを挙げて正面から戦う戦国武将のような発想ではなく、忍者のように敵の弱点を突く、知力が要求される。それが世界のサッカーであると。こうして「後進国の評論家」は、自分の立ち位置も棚に上げて、サッカーにおける「グローバリズム」を説いてきた。

そして彼等は、我が国がようやくW杯予選を勝ち抜き、世界の一線に躍り出るチャンスを掴んだ時、代表監督が戦略的意図をもって、あるいは自分達の実力を最大限に発揮する意味をもって立てた目標:「一勝一敗一分で予選リーグ突破」を徹底的に扱き下ろした。「三戦全勝と何故言わぬ」「そんな弱気では勝てるものも勝てない」と煽りまくった。まるで戦前、戦中の朝日新聞のように。

流石「後進国の評論家」である。世界のサッカーは、グローバルには……となけなしの知識をひけらかして、「日本サッカーよ、狡さを学べ!」と書きまくった同じ人間が、一転して「勝て勝て勝て」の連呼である。サッカー先進国なら何処でもやっている、「戦略的引き分け」をあたかもルール違反であるかの如く書き立てて、自国の戦略を身動きの出来ないものにしていった。

先進国の先進国たる所以とは、グローバリズムの中心に位置している者は、「自分達が有利になるようにルールを決めることが出来る」ところにある。それを我が日本柔道は間違ってしまった。グローバリズムの意味するところを知らず、競技人口を増やすことを重んじるあまり、自分達に不利な、望まない改変をも受け入れてしまった。

そして、日本サッカーも幾ばくかの発言権が得られるところまで、強くなってきた。日本の独自性が認められるようになってきた。しかし、日本が如何に「フェアプレーの精神」を説こうとも、「自由自在に手を使うスポーツであるサッカー」の本質が変わることはあるまい。ゴール前の密集状態の中で、誰一人として相手のユニフォームに手を掛けていないチームがあるなら教えて欲しいものである。


「なでしこ」は世界一になった。このことで我が国の女子サッカーは「大きな発言権」を持つことが出来た。発言権とは、時の強者のみに与えられるものである。それは試合を支配すると同時に、「大会全体を支配する権利」である。それが合法的に与えられるのが、スポーツにおける暗黙の了解「チャンピオン有利」の原則である。このハンディを乗り越えて勝たねばならぬ挑戦者は、それ故に評価されるのである。

この「権利行使」と「フェアプレー」は矛盾しない。これを矛盾すると考えるなら、ハシゲにでも弟子入りして、「僕に理解出来ないスポーツなど止めろ」と吠えればいい。今回、なでしこは、状況判断からの当然の帰結として、「引き分け」を望んだ。かつては勝つことはおろか、引き分けることさえ大評価された日本サッカーが、オリンピック・チャンピオンの座を奪う為に、大会全体をコントロールしようとしているのである。

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この意味での「快挙」に対して、サッカージャーナリスト・大住良之は、「引き分け狙い…なでしこ、フェアプレー精神はどこへ」などという下らぬ記事を書いている。対戦両チームが「阿吽の呼吸」で試合そのものを潰したバドミントンの「敗退行為」と、同じレベルの問題に貶めたいのか。「問題にされる懸念がある」とか「明らかにフェアプレー精神に反する」だとか、誠に五月蠅いかぎりである。
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO44407890R00C12A8000000/

この記事の最後は「眠い目をこすりながらテレビの前で試合を見守った少年少女たちを含めた日本中の人々を落胆させた罪は、けっして小さくはない」 と結ばれている。なでしこに「小さくない罪がある」とは大した錯乱である。こういう論拠で、事を蒸し返すことこそが、相手チームに対する敬意の欠如なのである。相手は勝利を目指していたはずである。それを譲らず、ゲームを完全にコントロールしたチームが、大罪に値するとまで公言されては、相手も堪らないのである。

「サッカーは文化である」「サッカーは人生そのものである」「サッカーには大人の知恵が必要だ」「何時までも潔い敗者に留まっていてはならない」等と散々書いてきた自称ジャーナリストの連中が、ようやく発言権を持った日本サッカーに対し、こうして後ろから弾を撃つのである。今こそ「眠い目をこすりながら試合を見ていた少年少女」に、マリーシアの何たるかを、人生の不条理を諭す絶好の機会ではないのか。

日本の勝利を真に望む者なら、今は代表の全てを肯定し、彼等に思うがままのプレーが出来る環境を作るのが本当の応援ではないのか。幼稚な批判は、大会後の総括に取っておけ。


柔道における勝利至上主義を否定するのと同様に、サッカーにおける狡賢さも否定する。全てのスポーツは「気味悪い程に正々堂々」としているべきだと考える。この立場に全ての日本人が立って、今回の「引き分け問題」を否定するなら道理に適う。しかし、それは現実を余りにも甘く考えたものである。

両者の根本的な違いは、柔道は我が国がルールをコントロール出来る立場にあるにも関わらず、本来は勝利至上主義ではなかったものを、別種のいかがわしいものに改悪する手助けをしてしまったことである。一方、サッカーは我々にそうした権利は与えられておらず、これから「郷に入って」少しずつ、日本的なものの考え方を世界に紹介していく立場にあることである。

近い将来に、絶対に手を使わない、審判が見ていようがいまいが、断じて手を使わないサッカーになることを夢見ながら、今は狡賢さを肯定せざるを得ない。この二十年でサッカーは一流になった。しかし、評論家は三流のままである。「全戦全敗」のマスメディアこそ、日本中の人々を落胆させ続けている大罪人である。