33年ぶり、祇園祭が再興。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】1500年6月7日






虚像だった「民衆の祭り」


 今日17日は京都・祇園祭のハイライト山鉾(やまほこ)巡行である。32基の山と鉾が都大路で絢爛(けんらん)豪華な絵巻を繰り広げる。担い手と観光客とが一体となって楽しめる日本最大の祭礼だ。

 室町中期、10年間続いた「応仁の乱」は京の町を荒廃させ、祇園祭も中断に追い込まれた。乱が終息して23年後の明応(めいおう)9(1500)年5月、室町幕府からある命令が祇園社(八坂神社)と下京の町々に出された。祇園祭を再興するので、神輿(しんよ)と山鉾をそれぞれ出せというものであった。

 山鉾巡行はよく「権力に抵抗する民衆の祭り」と表現される。豪商らが幕府などの権力に逆らい、自らの繁栄を誇る祭りという意味である。

 「こうしたイメージは戦後の住民自治の高まりの中で、史実以上に町衆の力を高く評価することにより作りあげられものです。再興を主導したのは、間違いなく室町幕府でした」

 『祇園祭の中世』(思文閣出版)などの著書がある河内将芳(まさよし)・奈良大学教授は言う。足利義満ら歴代の将軍は桟敷を作って山鉾巡行を見物し、幕府の権威を見せ付けていたというのだ。

 再興の理由はもう一つあった。明応3(1494)年7月、京都で1万戸を焼く大火が発生し、「火事は祇園の神のたたり」とする神託が出ていた。また疫病も流行し、社会不安が高まっていた。幕府として、疫病封じのための祇園祭は必要だったのだ。

 火事や疫病などは、町衆にとっても最大の脅威だった。応仁の乱の傷はまだ癒えず、経済的な負担も大きかったが、町衆は「災厄(さいやく)除け」の一点で協力を決断した。

 6月7日、山鉾巡行は再興された。乱の以前に出ていた数には及ばないものだったが、進み行く山鉾を目にして、人々は大災禍からの復興の一歩を実感したことだろう。

                                 (渡部裕明)