「因幡薬師」京都に飛来。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】1003年4月






受領・橘行平の猟官運動?


 「因幡堂(いなばどう)」と聞いてピンとくれば、かなりの京都通だ。烏丸通(からすまどおり)と五条通が交差する北東にあるこの小さな寺は、本尊の薬師如来立像(国重文)が因幡国(鳥取県東部)から飛来したというユニークな伝承を持っている。

 創建したのは藤原道長の全盛期、因幡国司をつとめた橘行平(たちばなのゆきひら)である。行平の兄は、あの清少納言と結婚した。諸国の国司を歴任する「受領(ずりょう)」と呼ばれる中流貴族の出身だった。

 因幡堂本尊は霊験(れいげん)あらたかとされ、「因幡堂薬師縁起絵巻」(東京国立博物館蔵)など多くの縁起が作られている。行平が夢告(むこく)で賀留津浜(かるつのはま)(鳥取市賀露町(かろちょう))に赴くと霊木で刻んだ薬師像が海から引き上げられ、現地に仮堂を建てて安置した。しかし像は長保(ちょうほ)5(1003)年4月のある夜、京の行平の屋敷まで飛来したというのである。

 むろん、飛来など事実ではあるまい。だが薬師像を詳しく調べると、興味深い事実も明らかになった。高さ156センチのこの像は奥行きが異常に薄く、また背中に大きな節が3つもあるなど、仏像にふさわしくない材で制作されていたのだ。「霊木で刻んだ」との伝承を裏付ける発見だった。

これらの調査結果から、中野玄三・嵯峨美術短期大学名誉教授(美術史)は次のように結論付けた。

 「因幡国で霊木が人々の話題になっていることを知った行平が、それを取り寄せて薬師如来像を刻み、霊験譚(たん)も作り上げた」

 受領は赴任先で富を蓄え、上流貴族に奉仕することにより、さらなる出世をめざした。因幡薬師の造立も「猟官運動」の一つとみるのである。

 一方で行平は因幡時代の寛弘4(1007)年、地元役人と衝突し、殺人事件を起こして国司を罷免された。薬師像造立はその贖罪(しょくざい)のため、とする別の意見も出されている。

                                 (渡部裕明)