手のひらに収まる巻物
第二次世界大戦後、ソ連軍の捕虜として満州から移送されてシベリア抑留生活を送った大津市の元兵士の遺品の中から、現地でソ連兵の目を盗みながら短歌や俳句、メモをつづった巻物(縦約5・2センチ横約1メートル7センチ)が見つかった。極限状況の心情が米粒ほどの字でびっしりと書かれている。巻くと手のひらに収まるためソ連兵の没収を免れたとみられ、専門家は「貴重な資料」と指摘している。
巻物は、大津市柳町で酒店を営んでいた井上治平さん(大正元年~平成9年)の遺品。井上さんは昭和17年、29歳のときに2回目の徴兵で満州に出征し、終戦直後、20年8月に満州敦化(現・中国吉林省)で、ソ連軍の捕虜となり、20年11月から22年8月までシベリアの収容所で捕虜生活を余儀なくされた。
井上さんの孫にあたる大津市の主婦(39)が昨年9月に遺品を整理中、発見し、市歴史博物館に連絡した。同館によると、巻物には仏画と魔よけの呪文が印刷され、井上さんがお守りとして肌身離さず持ち歩いていた可能性が高い。靴の中に隠すなどして検査を免れていたとみられる。
巻物では、敦化収容所から約2千キロ離れたシベリア・タイシェトに移送される間や、タイシェトの収容所での生活について赤いインクの小さな字で記入。鉛筆の下書きもある。余白部分に戦友ら約60人の住所と名前も書き込まれていた。
孫は「祖父は、シベリア抑留の話はほとんどしなかった。(抑留中に娘の姿を思い浮かべていた内容などに)母も生きていれば驚いたでしょう」と話した。
日本近現代史を専攻する国文学研究資料館(東京)の加藤聖文助教(45)は「捕虜として書いたものが、日本に持ち帰られること自体が珍しい。抑留生活の実態や様子がわかる大変貴重な資料」と話す。
7月10日から始まる市歴史博物館のミニ企画展「シベリア抑留の記録」で展示される。8月19日まで。
■原文の抜粋
巻物には、空腹の苦しみや、家族、戦友への思いが切々とつづられている。
「追散らすソ兵 ■(塗りつぶし) 監視の隙見つゝ 砂と混りし粟一握み拾ふ《ソ連兵が追い散らすが、監視の隙をみて砂と混じったアワの実をつかんで拾った》」は詠んだ場所は不明だが、続けて心情を吐露する。
「吾ながら浅間しい行為だと思ふけれども命をつながんがためにはそれがどんな恥しい行為を耐え忍んででもそれをやらなければならない《あさましい行為と思うが、命をつなぐためには恥ずかしい行為でもしなければ》」と記す。
シベリアに向かうため、敦化から牡丹江(黒竜江省)まで歩いた。その途中の沙河沿(吉林省)では、こう文章を記した。
「幕営の夢浅ければ暁冷ゆる 空腹で目が眩む 重い荷物は肩にくい込んで、(中略)くづれそうだ。足許に捨てゝある土にまみれた乾パン三片と小さな一つの馬鈴薯の生をソット拾つて噛ぢる《野営では眠りは浅く、朝は寒い。腹がへり目がくらむ。荷物が重く倒れそうだ。足もとに捨てられた土まみれの乾パン3切れと生の小さなジャガイモをかじる》」
ようやく牡丹江に着くと、大津の妻子を思い、こう歌った。
「数勺の粥すゝりつゝ強行す 妻子の■(塗りつぶし)幻を瞼にうかべつゝ《わずかばかりのおかゆをすすり、妻子の姿をまぶたに浮かべる》」
シベリアに入ると、収容所で栄養失調のために入院したことが書かれ、そこで「戦友の塚一輪の罌子咲き揺れぬ《戦友が眠る塚に、1輪のケシの花が咲く》」と戦友の死を悲しんだ。
末尾は、昭和22年8月25日に収容所を出発し、「収容所全員羨望ノ下ニ帰還ノ途ニツク《みながうらやむ中、帰国に向かう》」としめくくっている。
■シベリア抑留
第2次世界大戦で、旧ソ連が日ソ中立条約を破り、1945年8月9日に満州や千島列島などに侵攻。ソ連は終戦後、武装解除した日本兵の日本帰国を保証したポツダム宣言に反し、日本兵や民間人ら約60万人を、シベリアやモンゴルなどの収容所に移送し、道路建設や伐採作業などの重労働に従事させた。厳寒の環境下で、満足な食事や休養を与えられないまま、過酷な労働を強要され、栄養失調などで約6万人が死亡した。
赤い字で「監視の隙見つゝ 砂と混りし粟一握み拾ふ」などとある
=大津市歴史博物館(小川勝也撮影)