【古典個展】立命館大教授・加地伸行
このコラムの連載もいつしか50回を越えた。はじめ産経新聞の求めが『論語』をということだったので、これまでずっと『論語』を引用してきた。
しかし、古典は『論語』だけではない。それに、現代において古典を読む主な目的は、その知恵を知る、学ぶことにあるので、このコラムも、今回を機に引用を自由に広くにいたしたいと思う。
さて、古典とはすこし意味合いが違うが、国語には四字熟語というものがある。それらは口語とは異なり、だいたい古語であり文章において使われることが多い。
そこで注意。四字熟語を引くときは、その意味をよく理解して使ってほしい。誤用をする人が多い。例えば「花顔柳腰(かがんりゅうよう)」。これは、花のように美しい顔(かんばせ)、柳のように細くしなやかな腰、と女性の容姿についての褒めことばである。
ところが、仙谷由人元官房長官は、外交交渉において「やなぎごし(柳腰)」で臨むと言って世人の失笑を買った。それだったら、或(あ)る種の女性が示す媚態(びたい)ということになってしまうではないか。
もし「腰」字を引用するならば、粘り強い腰という意の「二枚腰(にまいごし)」という相撲用語を使うべきであった。
つい最近、野田佳彦首相も一知半解のまま四字熟語を使っていた。すなわち小沢一郎元代表と面会する前、心構えをこう言った。「乾坤一擲(けんこんいってき)」「一期一会(いちごいちえ)」と。
驚いた。「一期一会」の「一期」とは、その人の一生ということで、その生涯においてただ一度の出会いということだ。
にもかかわらず、再度出会っているし、第一、党という俗人の仲間において一期一会などということは絶対にありえない。
「乾坤一擲」とは、大勝負をするということであって、いわば相手への宣戦布告にほとんど等しい。そこには妥協を許さずまっすぐに自己の立場を貫く意志がある。けれども、小沢派と大喧嘩(げんか)したわけでもない。なにが乾坤一擲なものか。
軽いのである、ことばが。いや、軽はずみに使っているのである、重いことばを。
乾坤一擲だの、一期一会だの、そういう大げさなことばではなく、ごくふつうのことばを使って、まごころの籠(こ)もった己の信念を語ってよいのだ。いや、語るべきなのだ。
けれども、出てくることばは、いつも「しっかりと」であり「政治生命を賭(か)ける」だけである。
同語反復という内容空虚なことばをいくら重ねても、ゼロにゼロを足すだけのこと。
そういう力不足の首相が重たい小沢派を背負って、消費税増税の高い土塀(どべい)をどのようにして乗り越えることができるのであろうか。無事にその目的を果たせそうには見えない。小沢派を背負っての塀越え姿は、それだけで不吉(不祥(ふしょう))の発生をすでに表しているのではあるまいか。
中国は古代、『淮南子(えなんじ)』説林訓に、こういう話を載せている。
「子を負(お)いて(背負って)牆(しょう)(かきね・かこい・土塀)を登る。これを不祥と謂(い)う。その一人隕(いちにんおつ)れば(ころがり落ちれば)、両人(りょうにん)(当人と子ともに)殤(わかじに)(夭折(ようせつ))するがためなり」と。
(かじ のぶゆき)