【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思
もともと私は「政治」に対する関心の薄い人間である。性癖としていえば「政治」には近づきたくない、という方である。だから、いわゆる永田町情報などというものにはまったくうとく、国会で審議されている事項についても、常日頃、それほど関心をもっているわけではない。
要するに、民主的な政治の「主権者」としての自覚もなければ、その義務も果たしていないと告白するほかない。正直にいえば、物事を知恣(ちしつ)した政治家がそこそこ適切に事態を処理してくれて、特段の不都合が降りかかってこなければそれでよい、というわけである。
かくのごとき、どうみても民主国家の市民として落第だと思うのだが、その割には、たとえばこのコラムもそうであるが、「政治」について書く機会が多い。われながら気恥ずかしくもなるのだが、それには理由はなくもなく、私の個人的性癖はともかくとして、政治にかかわる現象そのものはきわめて重要だと思っており、また関心をひくからである。
というのも、政治は、一方で「利」をめぐる駆け引き、取引、綱引きの連鎖であると同時に、他方で、意思決定の「正当性」をどこかで担保しなければならないからだ。「正当性」をめぐる言説や論議が不可欠であり、そこにどうしても「政治とは何か」という問いがたえず喚起されてくるからである。
この「政治とは何か」という問いを最初に発したのは古代ギリシャのプラトンやアリストテレスで、両者の間にはいくぶんかの相違はあるが、それでも彼らが共通にもっていた思いは、政治とは、何か善(よ)きものを実現するための共同の活動であり、そのためには、徳をもった善き市民が政治にあたらなければならない、という考えであった。
「善きもの」とは何かといっても定義は難しい。しかし、「善き国家」「善き生活」という何らかのイメージは人々のなかにもあり、それを明確に提示するのが、政治家であった。
今日いう「ポリティックス」も基本的にはギリシャの「ポリス」に発し、「ポリス」は、人々が充実した善き生を実現するための共同体(都市国家)であった。ついでにいえば、「ポリティック=思慮深い」も、また「ポリース=警察」も関連語である。
しかし、今日の政治に人々が期待するものはもはや「善い生」や「善い国家」の実現なのではない。近代国家における政治は、何よりも国民の生活の確保、国の安全保障を旨とする。国民の生命、財産の安全確保、さらに生活保障、これが政治の第一義的な役割とみなされている。
どうしてこの転換が生じたのだろうか。それは、何が「善い」とみなすかは個々人の自由だとする自由主義(リベラリズム)が近代の原則になったからである。だから、「善い生」の中身は人によって違うし、それに「善い国家」のイメージも人によって違う。それを一つに集約することはできない、というのである。
こうして、政治は、国や人間の生についての理念も理想も語ることができなくなった。いや語るべきではなくなった。
すると政治はどうなるのだろうか。国民生活に直接に関わる事項の調整をもっぱらにするほかない。つまり、政治はどんどん行政化してゆくだろう。確かに、政治はわれわれの生活に近づき、密着してくる。年金問題や福祉給付、子ども手当から公務員給与などへ、まさしく生活に密着した論点へと流れてゆく。
より正確にいえば、社会の制度に関わる課題が、もっぱら身近な生活感覚において論じられるようになる。これは本来は、具体的な行政に属する問題なのである。しかし、身近な生活に関わる課題であれば、誰もがそれなりに利害に巻き込まれるので、結局、政治は、この利害調整に多大なエネルギーをとられることになるだろう。
アメリカの「ネオコン」の思想的な源流として有名な政治哲学者のレオ・シュトラウスは、このような事態をさして、近代社会では政治のレベルは著しく引き下げられた、と述べた。近代ではもはや大きな構想をめぐって争ったり、理想的国家への接近を意図したりするという「大きな政治」は不可能になる、というのだ。政治は行政化し、逆に行政的なテーマが政治化してしまう。
今回の消費税騒動も、問題がこれほどねじれたのは、将来の日本社会のありようについての「大きな構想」を出せないからである。あるいは、「善(よ)き社会」のイメージが確定できないからである。今後の少子高齢化のなかでいかなる社会を目指すのか、という構想が描けないから、消費税だけを取り出しても、本当は論議のしようがないのである。だから、一方では、素朴な生活感覚から反対がなされたり、小沢一郎元代表のように民主党のマニフェストにはなかった、などという反論がなされたりする。後は、税率や実施方法をめぐる細かい対立になる。
確かに個人の自由を原理とする近代社会は、シュトラウスのいうように「政治のレベル」を引き下げてしまった。「善き社会」のイメージを構想することは難しくなった。しかし、それがまったくなければまた、政治的な意思決定はささいな利害対立や利害調整に終始し、紛糾し、結局は政権構想なき政局へと陥ってしまうだろう。一度は、与野党が共同して、今後の日本社会の目指すべき大きな方向について、共通化できる了解点と対立点を描いてみてはどうなのであろうか。
(さえき けいし)