【遠い響・近い声】特別記者・千野境子
時代が大きく動くとき日本は外部世界に道を仰いだ。逆も真なり。外に道を求めて時代を進めた。明治維新の際の岩倉具視使節団、古くは遣隋使や遣唐使などが挙げられる。
しかし時代に合わず、あるいは時代が予期せぬ転換をして、目的を遂げることなく終えた例もある。
慶長18(1613)年、仙台藩主伊達政宗の命を受け派遣された支倉常長遣欧使節団も、日本人として初の太平洋・大西洋横断の快挙で、ローマ法王やスペイン国王への謁見を果たしながら、帰国後に待っていたのはキリシタン禁制令だった。
一切が抹殺され、そもそも使節団は何を目指したのか根本的な疑問に答えはなかった。だが後世の人々はこれらの闇に光を当て、さまざまなロマンが生まれてきた。歴史は案外、公平なのかもしれない。
一行のスペイン上陸の地、セビリア近郊コリア・デル・リオのグアダルキビル河畔に立つ支倉常長像は使節団の確かな存在を伝え、町にはハポン(日本)姓の人々が暮らす。全土で600~700人というハポン姓の大半がこの町と周辺の住人だ。
画家エル・グレコ(ギリシャ人)が自らの帰属を姓にしたように、ハポン姓も使節団の子孫というのが定説だ。帰国しなかったのはなぜ? 禁教を恐れた、恋人ができた…それこそロマンである。
折しも来年は支倉使節団400周年。2年前、日・スペイン首脳会談は、来年と再来年を両国の交流年とすることで合意した。だからいま、この町のハポン一族たちは交流年に格別の思いを抱く。
先月、町を訪れ「スペイン・ハポン・ハセクラ・ツネナガ協会」のファン・フランシスコ・ハポン会長(43)に会うと、初対面とは思えぬ人なつっこさで日本への憧れや尊敬、両国の絆への熱い期待を語ってくれた。東日本大震災では協会員や町の人々が支倉常長像に集い、献花とともに5分間の黙祷(もくとう)をしたという。
「日本人は大惨事に略奪も暴動も起こさず、落ち着き威厳さえ保って行動した。だから自分に日本人の血が流れていることはとても大事なことだし、姓に誇りを持ちます」
しかも両親ともハポン姓だそうで「ダブル・ハポン。日本がよけい近いわけですね」と笑った。
通された自宅には彼が「宝物」と呼ぶ、日本関係のたくさんの蔵書や東北の民芸品などが飾られていた。
ハポン姓と使節団との関係を追って、地元の教会やセビリアの図書館などを訪れては晩年の20年を調査に費やし、先の協会の基礎を作り、自分のハポンへの関心を育ててくれた叔父の後継者になりたいと、愛蔵品を継いだのである。
英語教師の仕事との両立は大変だが、いま念願は400周年の特別事業だ。両国では支倉使節団関係資料の世界記憶遺産への共同推薦が決まっている。来年登録を目指す。
「祝賀パレードとか、400本の桜を植えるとか、まだアイデアの段階ですが、日本大使館や他の機関とも協力しぜひ実現したい」と語る。不動産バブルがはじけ、ギリシャの次の危機はスペインといわれる中、問題は資金だ。もっとも陽光あふれる静かな町に不況の影はない。
何を思ったのだろう。突然、彼が「日本人に見えますか?」と聞いてきた。一瞬、口ごもった私は、彼のそれまでの物腰や口調に「十分、日本的よ」と答えたのだった。