【消えた偉人・物語】台湾の「松下村塾」
筆者は勤務の傍ら、NPO法人アジア太平洋こども会議イン福岡に併設の「世界にはばたく日本のこども大使育成塾」の塾長を務めて4年目を迎えている。
この塾の目的は、小学校高学年の児童を対象に1期1年4カ月のカリキュラムを通じてわが国の歴史と文化を修得させ、派遣先のアジア太平洋の国々で日本の真の姿を紹介できる「こども大使」の育成にある。
先般の春休みには台湾に赴き、震災に見舞われたわが国への惜しみない支援に対して感謝を伝えるミッションを果たした後、八田與一(はったよいち)が築いた烏山頭(うさんとう)ダム(台南)を視察。次いで六士先生と呼ばれる日本人教師が創設した「芝山巌(しざんがん)学堂」を引き継ぐ士林(しりん)国民小学(台北)を表敬訪問して帰国したところである。
当欄では、塾生の児童30人が感動に浸った士林国民小学創設にまつわる史実を取り上げてみたい。
明治28年のこと、日清戦争の勝利の結果、台湾を領有したわが国は、早々に教師を募集し、台北郊外の芝山巌と呼ばれる地で近代教育を開始した。
ところが、翌29年元旦、彼ら日本人教師を抗日派の武装兵が襲撃し惨殺する。非命に倒れた教師は楫取道明(かとりみちあき)ら6人。実は楫取の母、寿(ひさ)は吉田松陰の妹に当たる。彼らは台湾人子弟と寝食をともにし、松陰さながらに心魂を込めて教え育んだという。
教え子の一人、潘光楷(はんこうかい)はのちにこう述懐している。「我等(われら)が恩師は南瀛(なんえい)の文化を啓発し、人心を陶冶(とうや)するの目的を以て遠く絶海の孤島にのぞまれ、旦夕(たんせき)余等を教導するの任にあたり、余等亦(また)慈父の親みを以て之に見(まみ)えたりしも、…空(むな)しく天涯の鬼と化せらる。今や当時を追憶し轉々(うたた)断腸の念に堪へざるものあり」と。
このように、芝山巌での教育は1年にも満たなかったが、その情熱の火は消えはしなかった。悲報が内地に伝わるや、先覚者の志を継ぐべく全国津々浦々から有志教師が続々と訪台し、半世紀に及んで献身した。
筆者は、松下村塾の精神は芝山巌学堂に承け継がれたと見る。この2つの教場が日本と台湾の新たな時代を拓(ひら)いたのである。
(中村学園大学教授 占部賢志)
台北市郊外の芝山巌に建つ「学務官僚遭難之碑」とこども大使一行