【記紀万葉の風景】
清寧天皇の後、顕宗(けんぞう)天皇、仁賢天皇と続きます。顕宗天皇と仁賢天皇については、すでに触れましたので、この連載ではより詳しく述べることもないと思います。続いて武烈天皇、継体天皇の時代になります。武烈天皇は長谷(はつせ)の列木(なみき)宮にて天下を治めますが、大王の位を継承する者がなく、応神天皇の5世の孫にあたる継体天皇を近江から呼び寄せたとあります。
継体天皇は伊波礼(いわれ=磐余)の玉穂宮で天下を治めたと「古事記」にありますが、「日本書紀」では磐余に至るまで、樟葉(くずは)「宮で即位し、山背(やましろ)の筒城(つつき)宮・弟国(おとくに)宮を転々としています。そして、継体天皇の第1御子である安閑天皇が勾(まがり)の金箸(かなはし)宮を営みます。日本書紀には、勾の金橋をもって宮の名前とするとあります。
勾は橿原市の曲川(まわりかわ)のこととするのが通説ですが、必ずしも断定できるものではありません。かつて金橋村という村がありましたが、この名前も明治22年につけられたもので、安閑天皇の宮が曲川あたりとする想定によるものです。日本書紀の安閑天皇紀はかなり詳細な記事をあげていますが、古事記は、宮と御陵の所在地しか書かれていません。古事記と日本書紀との間で編纂に用いられた史料の違いによるのかもしれません。
さらに、この時代については複雑な説があります。それは、安閑天皇に続く宣化天皇、欽明天皇の即位に関するものです。つまり、継体天皇が亡くなった後に欽明天皇が即位し、一方では、安閑・宣化天皇の別の王朝が並列的に存在するという見方で、「継体・欽明朝内乱」説とよばれています。
2つの王朝が並列したかどうかは、今後も議論が続くことになると思いますが、安閑天皇の後、継体天皇の第2皇子である宣化天皇が即位したとあります。その宮は檜●(=土へんに同の一を取る)(ひのくま)の盧入野(いおりの)宮とよばれました。檜●(=土へんに同の一を取る)は檜隈と同じ場所を示す地名とみられ、明日香村檜前(ひのくま)にあたります。
「続日本紀」宝亀3(772)年条に、坂上苅田麻呂(8世紀後半の武将)の上表文(天皇に意見を奉る文)に「檜前忌寸(いみき)を大和国高市郡郡司(郡の役人)に任命する理由は、その先祖にあたる阿知使主(あちのおみ)が応神天皇の時代に17県の人たちを率いてやってきた。詔によって高市郡檜前村を賜り、住まわせた」とあるように渡来系集団の居住地でありました。日本書紀応神天皇20年条にも「倭漢の祖、阿知使主、その子、都加使主(つかのおみ)、ならびにその党類17県を率いてやってきた」とする伝承を記しています。
明日香村檜前に式内社の於美阿志(おみあし)神社が鎮座しています。前掲の「アチオミ」という名の「オミ」を前にして「アチ」を音の類似から「アシ」としたと解釈されています。また、檜隈寺跡が於美阿志神社の境内にありますが、これも倭漢氏の氏寺とみなされています。あるいは、またこの地において朝鮮(韓)半島で知られる大壁と呼ばれる7世紀前半~半ばの土壁の遺構が出土し、渡来系集団の住居であるとされました。
このような渡来系集団の拠点に、宣化天皇が宮を営んだということをあらためて検討する必要があると思います。そして、被葬者はともかくも檜隈坂合陵、檜隈安古岡上(あこのおかのえ)陵、檜隈大内陵などの天皇陵がなぜ檜隈の地に築造されたのでしょうか。古代史の大きな見直しが迫られているかもしれません。
(県立図書情報館長・帝塚山大特別客員教授千田稔)