日本版「文化大革命」只今進行中-4 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録 様のブログより。




さて、日本版の文革を推進する「紅衛兵」達が大好きな「捨て台詞」がもう一つある。それは「信者」である。相手をこう揶揄することで、簡単に勝利を手に入れることが出来る、魔法の言葉である。これを国籍定かならぬ者から、自称大学教授まで真面目な顔で書いているから、誠に呆れかえるばかりである。

これに関して最近「面白い法則」を発見したので、記しておく。以後、論じる「信者」は真面目な信仰に関わるものではなく、あくまでもカギ括弧附きのものであることを断っておく。

例えば、嘲笑の対象として「麻生信者」「西田信者」「自民党信者」という書込は散見されるが、「鳩山信者」も「野田信者」も、そして「民主党信者」も聞いたことがない。もっとも教祖然と振る舞っている「友愛教」の元凶ですら信者を獲得しかねている。どうやら信者の風は「左から右へと吹いて、その逆は無い」ように見える。

ごく最近では、活躍中の京大コンビに対する侮蔑の言葉として、「中野信者」や「藤井信者」が使われているようであるが、「古賀信者」も「岸信者」も聞いたことがない。事の正否は置くとして、「一貫した主張」に同調すると信者扱いを受けるように見える。

要するに、「右側に居る人間がまともな主張をする」、これに賛意を示した者は、たちまち信者というレッテルを貼られる、そんな図式が見えてくる。だとすると、やはりこれは左からの風であろう。「紅衛兵」たる連中は、恐らく「○○信者」と書いたカードを、相手の首に掛けて石でも投げたくて仕方がないのであろう。嘲笑の裏に、それと相反する凶暴性が透けて見える。

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これもまた「日本版特有の現象」ではないだろうか。「信者」と「どっちもどっち」という二つの台詞は、実は同じものなのである。

マスコミに登場する自称知識人や、学校の教師、社会、それら全てが「信者」というものを否定している、冷静になることを求めている。常に一歩退いて、「大局的な立場」から物事を見ることを勧めている。

これも一つの病ではないか。
何故、「信者」ではいけないのか。
何故、「一歩退いて、醒めて見なければならない」のか。

誰も教えてはくれないのである。それは「疑う必要のない真理だ」と全ての人が刷り込まれているのである。即ち、「信者を否定すること」を、「無条件に信じるように教育されている」のである。これを「信者信者」と呼ぼうか。「一つの意見に縛られてはいけない」という一つの意見に縛れれているのではないか。

学者であるはずの大学教授が、「信者」を否定する。では一体、「信者」と呼ばれる程の熱狂ぶりで、一途に対象に取り組まなくて、どうやってそれ極めたというのか。あれも正しい、これも正しいという「価値相対主義」は学問的に最も否定されるべき態度ではないのか。決めるべきを決めず、価値判断から逃げて、いたずらに評価を保留することは、既に学問ではなく、それは学者の取るべき態度ではないはずだ。

要するに、意見を求められて、「どっちもどっち」「それぞれに良い点、悪い点があります」などという寝言を言う人間は、学者の名に値しないということである。学者は自分の専門分野において、その職を賭けて「断言する」ものである。それが社会が学者に求めている「位置」である。

学問でも芸術でもスポーツでも、この線を越えたら正気には戻れない、というギリギリの線まで踏み込んで初めて会得出来るものであろう。「信者」になることを恐れて、為せることなど何も無い。正気に戻るための髪の毛一本さえ残しておけばよい。「一心不乱に信じる」ことで、ようやく相手の正否、善悪が見えてくるものである。

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「政党ではなく人で選べ」というコメンテータも居る。「人で選べる程、その人を知る為には何が必要か」を言わなければ、こんなバカげた指摘はない。そこまで人物に寄り添って決断を下すのならば、それは友人、知人の枠を越えて、運命共同体的な繋がりを候補者と持たなければ、到底「人では選べない」はずだ。それは「信者」になることと同義である。少なくとも、一時的には「信者」でなければ、何も見えない。

友情でも、恋愛感情でも同じことだ。
盲目的な状況を経なければ、相手の深い部分は決して分からない。

それを「信者」と揶揄することで否定している。
揶揄されることを恐れて、深入りを避けている。
だから何も見えてこないのだ。
残すのは髪の毛一本だけでいいのだ。

それを残さず、最終的な判定能力を失った人を「洗脳状態」にあるという。「信者レベル」なら充分引き返すことが出来るはずである。

一番簡単な例を引いておこう。
何故、政権交代が起こったか。

それは「民主党信者」が居なかったからだ。民主党の主義主張にドップリと浸かって、共に死ぬ気で支持した人間が居なかったからこそ、彼等は易々と政権を手に入れたのである。もし本気で支援する者が多数居れば、本気で「脱会」する者も多数出たであろう。彼等の欺瞞を許さないと内部告発する者が次々と現れたであろう。

そんな者は居なかった。有権者も同様である。
だから今なお、民主党に支持率が存在するのである。
本気で支持しなければ、本気で裏切られることもない。
「どっちもどっち」と言い続けていれば、自分の心は傷付かない。

我々日本国民は、大変な誤解をしているのである。我々は、「信者」となって堂々と間違いを犯し、堂々と引き返してくればいい。これは軽薄なる右顧左眄とは全く異なる、真剣なものである。その真剣さの核になるのは、相手の主張が如何に首尾一貫しているか、責任を取り得る形式になっているか。論理的な矛盾は無いか、数値的なデータとしての裏付けがあるか。相手を選ばす公開の場で議論しているか、そうしたところをチェックすればいいのである。

「信者になれば戻れない」という弱い気持ちが、それを利用しようとする連中に、既に弄ばれているのである。「信者になってはいけません、何事も一歩退いて、冷静に、私の言うことだけを聞いていれば間違いない」と言って、信者を否定する人間は、自らの「信者否定の信仰」に引き摺り込もうとしているのである。

なお、本ブログでは「信者を求めてはおりません」。以上の雑談は、雑談としてお読み頂きたい。同じ意見を百人から聞いてもそれは一人分でしかない。出来る限り異なる意見を、腹に入れて、ゆっくりと消化すればいいのである。世間に広く流布しているものと「異なる意見の一つ」として、「一つの意見に縛られない為の一つの意見」として、お読み頂ければ幸いである。