【一服どうぞ】裏千家前家元・千玄室
四書五経の『大学』の中に「日に新たに日々に新たに、又日に新たなり」とある。昨日よりも今日、今日よりも明日と日を重ねるとともによくなるように、行いを正していかなければならないという意味である。殷(いん)の湯(とう)王の言葉で、毎朝それを口ずさんで善政を行う基にしたといわれる。そしてまた、上に立つ者は下の者に篤(あつ)く礼をと実行させた。昔から日本でもやかましく言われてきたことである。しかしどうも上になるほど己の存在感を強くみせるために威張り散らしたり、礼を欠くものが殆(ほとん)どであった。
私は少年時代に母から「仏頂面しないで、毎朝洗面をするのだから鏡に向かって笑顔で『おはよう。今日も元気で』と挨拶しなさい。そしたら誰にでもご挨拶できるようになります」と教えられた。それ以来、毎朝「おはよう。頑張ろう」、夜には「ご苦労さん、明日も頑張ろう」といっている。一日中そうした気持ちであれば、何か事があっても明るく乗り越えることができるのである。
室町時代の『閑吟集(かんぎんしゅう)』に「昨日は今日のいにしえ 今日は明日の昔」とある。過去・現在・未来の在り方を示したものであり、人に接するときにこうした気持ちをもっていると、人間性が少しでも高揚できるのである。毎日が楽しく新しい気持ちで過ごす人は数少ないと思う。どんなに若くとも日が重なり、年が積むと老いてくる。悠々たる心で雲の流れの如(ごと)く淡々としていられれば上等である。
アーネスト・ヘミングウェーの短編集に「清潔でとても明るいところ・A Clean,Well-Lighted Place」がある。この小説の一場面。ある1軒のカフェにほとんど客が引き揚げた遅い夜、ただ1人の常連の老人の客が残っている。電灯に照らされた明るい場所にポツンと1人で腰かけ、黙々とブランデーを飲んでいた。ウエーターは、この老人が世をはかなんで自殺未遂をした経験があることを知っている。だからいつまでもそっとしてあげたいと思っていた。閉店後に店を出たそのウエーターは、老人を思いだしながら「人生とは何だ。すべてが無であるように思う」と盛んに無常を考え結局虚無なることに行きつく。スペイン語で虚無は「NADA(ナダ)」であるが、このナダについて書かれているこの本は面白い。
何故(なぜ)ならば東西南北を通じて人間が行きつくところが虚無である。東洋哲学では、この虚無はすべて無になる。無から有、そして再び無に戻る。禅の教えもこの無という悟りに達しなければならないのである。
私が岐阜の伊深の正眼寺で故梶浦逸外(いつがい)老師のもとで参禅弁道していた頃、野球の巨人軍監督(当時)の川上哲治さんが何か行き詰まると老師を訪ね教えを乞われていた。老師は川上さんに何もいわれず「そこへ坐(すわ)っとれ」、即(すなわ)ち座禅をしなさいと指示される。川上さんは何回もそうしていろいろな苦悩から立ち上がられたと思う。それは「無」の教えであった。
何が「無」かというと、自分自身をすっかり捨てるという覚悟からその無の意識が判然とするのである。枯れ果てた樹々に青々とした葉が茂り、薫風にそよいでいる姿と一体になりたいものである。
(せん げんしつ)