日本版「文化大革命」只今進行中-2 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





夕刻の備忘録様のブログより。






毛沢東の指導した「下放」とは、知識人を農村部へ追放して、中央に「論理的思考」の出来る者が居なくなるようにすることであった。そして、全ての価値の最上位に農民が位置するかの如く偽って彼等を煽り、農村部で知識人に「政治教育のみ」を施すことであった。

それはまさに追放であり、奴隷化であった。専門家の否定、あらゆる専門職の否定であった。十億を超える人間の中で、「大脳を有する」のは唯一人毛沢東のみ。他は脊髄反射だけをする「人間もどきの社会」を作り、全ての意志決定を自分に一元化することが目的であった。

面従腹背が骨の髄まで染み込んでいる国民性である。表面的にはこれに従い、沈黙の数年間を暮らした者達が多かったようであるが、当然、これに大きく影響を受け、文化の破壊に勤しむ者も多かった。「文化大革命」とは既存の文化、およびその価値の否定であり、「完全な無知がむしろ学者に勝る」というカルト思想であった。

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さて、我が国での「革命」である。
ここまで書けば、もう明らかだろう。

この半世紀、マスコミを中心に最も熱心に行われたことは、権威の否定、専門家の否定である。徹底的な素人礼賛である。学者を「専門バカ」と呼び、専門家を「蛸壺の住人」と罵り、官僚を蔑み、政治家を「権力の亡者」とまるで犯罪者の如く言い募った。

あらゆる世界に素人の意見を反映させようと試み、無学で無知で無遠慮な者が出る度に、これを支援してきた。マスコミが主導したこれらの行為は、まさに形を変えた「下放」であり、日本版の「文化大革命」そのものであった。そして、「紅衛兵」の役割を演じたのは大衆であった。

その終着点として、「政権交代」が生じたのである。専門家集団である官僚を全否定し、政治主導を大宣伝した。その主導するべき政治家には、徹底的に素人を集めた。何も出来ない人間を揃えることによって、有権者に「むしろこの先、何か出来るかもしれない」という歪んだ幻想を抱かせた。そして政府を乗っ取り、国を乗っ取った。

原発問題も同様である。上にも下にも直言する「気骨のある専門家」は要職から外され、右顧左眄を得意技とする調整型の人間ばかりが残された。今日の脅威を明日の宿題にする人間が、上位を占める組織ばかりが中央に残った。


西の都の問題も全く同様である。素人の失政に呆れた有権者は、さらなる素人を求めて彷徨っている。頭目は一人でいい、あとは「紅衛兵」で充分なのだ。周りを囲むブレインは、曰く因縁附きの落伍者ばかりである。まるで余所で大失敗をしなければ、特別顧問にはなれないのか、と思うほどのラインナップである。

彼等の目論見は唯一つ、頭目の忠実な僕となって、自分達の経歴をリフレッシュすることにある。「輝かしい経歴」に染み付いた「汚点」を洗浄したくて仕方ないのだ。

もはや視点も定まらぬ「老いたプランナー」であるとか、一度たりとも景気予想が当たったことのない「経営コンサルタント」であるとか、任期中に逃げ出した「元首長」であるとか、大言壮語だけが取り柄の「元官僚」であるとか、よくもまあ、ここまで評価不能の人間ばかりを揃えたものである。

掲げる言葉は「維新」、やはりここでも「革命」である。しかし、ここまで手垢のついた言葉を平気で使うには理由がある。それは当面のことしか考えていないからである。珍妙な政党名を名乗る集団は全て同じである。子供に怪しげな名前をつけて喜んでいるバカ親と同じ発想である。当人が成人した後のことを微塵も考えていないのだ。

彼等は自分達が真剣に「政権与党」になった時のことを考えていない。今この瞬間のブームに乗ればそれでいい、後は「発展的解消」とか何とかで誤魔化して改名でもしておけば、悪い噂も払拭出来る。そう考えて、目の前に転がっていた名前をつけたのである。「船中八策」も全く同様である。


こうして中央に地方に、「文化大革命」は絶賛進行中なのである。

素人に清廉を求める人は、その気持ちが如何にねじ曲げられて利用されているかを考えることだ。政治家は極めて高度な専門職である。何百人に一人、或いは何十人に一人、おかしな政治家が紛れこんだとしても、専門家を否定すれば、必ず「革命」が起こることを、肝に銘じるべきだ。その「革命」は、誰も望まない、ある特定の個人のためのみに行われるものである。そして、それがもし個人のものでないとしたら、明らかに外患誘致の類である。日本中から専門家を追放して、得をするのは誰かを考えるべきなのだ。