祖国守護に生きた勇者の物語。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【消えた偉人・物語】愛国の人 大伴部博麻





時は7世紀後半、三国鼎立(ていりつ)の朝鮮半島で統一をもくろむ新羅(しらぎ)が、唐の力を借り百済(くだら)を攻略する。口惜しい百済は日本に救援を要請。これに応えてわが国は、朝鮮半島西岸の白村江で唐の水軍との決戦に臨んだが、結局は敗北を喫する。663年のことである。

 この時、捕虜となり長安に連行された日本兵の中に大伴部博麻(おおともべのはかま)という若者がいた。日本書紀によれば、現在の福岡県八女市上陽町から出兵した一人である。

 その彼が捕虜生活中に日本征服をたくらむ唐の計画を耳にする。しかし祖国に知らせる手段はなく、万事休すかと思われたが、博麻は自分を奴隷として売った金で船を調達し、同じ捕虜仲間4人を脱出させることに成功する。

 もちろん、わが国も唐の遠征はあり得ると予想していたに違いないが、そこに彼らから情報が伝えられた。かくて急ピッチで国防システムが構築される。

 664年には九州北辺に初めて防人が配備され、博多にあった官家など公的施設は内陸に移転。古代史に名をとどめる水城や西日本各地の山城も、この頃の築造である。
結果、遠征軍の襲来には至らず、むしろ双方に和平の道を選択し、遣唐使による交流も再開された。

 ところで、異国の地に奴隷としてとどまった博麻はどうなったか。消息不明のまま時は流れたが、28年後の690年、奇跡的に帰国してきたのである。

 当時の持統天皇はいたく感激され、異例の勅語(ちょくご)を博麻にたまわった。全文は日本書紀に記録されているが、その一節に「朕(ちん)、厥(そ)の朝を尊び国を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉(よろこ)ぶ」とあり、これを元の漢文に直すと「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」と表記する。

 この一節のなかに刻まれた「愛国」の2文字に注目していただきたい。愛国という言葉がわが国の歴史に最初に登場したのは、この博麻をたたえる持統天皇の勅語だったのである。

 歴史は観念の産物ではない。身を捨てて祖国を救った博麻、そしてその愛国の人生を受け止められた持統天皇のような方も、この国には存在するのである。

                         (中村学園大学教授 占部賢志)



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           1863年に建立された大伴部博麻の記念碑 =福岡県八女市上陽町の北川内公園