西の都の計画倒産。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






夕刻の備忘録 様のブログより。







会社がある負担を絶対に受け入れないと決意した時。
或いは、何が何でも解雇したい従業員が多数居る時。

一番効果的な手法は、会社そのものを潰すことである。

存在しない会社が責任を追及されることはない。仮に追求されたとしても、実体が無い以上、それは限定的である。上手くいけば、それも回避することが出来る。

また、会社の消滅と同時に、全従業員を解雇出来る。「全ての従業員」の中には、当然「何が何でも解雇したい者」が含まれる。そうした連中を外して、会社を「再建」すれば、目出度く目的は達成される。

組織の解体、組換え、消滅、再建には、必ずこうした目的が隠されている。そして、これらは全て「合法的」に行われる。
合法的に行うには、法律の知識が必要である。
法律の知識を充分に駆使するには、弁護士を雇う必要がある。
そして、弁護士が主役として躍り出てくる。それは辣腕か悪徳か、どちらにしても弁護士の「花の舞台」なのである。

西の都で今起こりつつあること。
それは「弁護士を主役とした組織解体」である。

弁護士の立場からすれば、これは「悪徳」でも何でもない。「依頼人の利益」に資するように、法的知識を駆使しただけの話である。
それが証拠に、弁護士達の団体は、これを非難しない。
適法、合法でさえあればそれでいい。
弁護士は弁護士であって、道徳家ではないからだ。
頼みの綱は、その「弁護士の人柄」だけである。

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さて、その「主役の人柄」である。
これは既に結論が出ている。

あの「長野聖火リレー事件」を思い出して欲しい。
そして、その親玉が日本国内をウロウロとしたことを。
そして、西の都を最後の訪問地として去って行ったことを。
時の知事は、これをどう考え、これにどう応じたか。

記者:「中国の胡錦濤国家主席が来日され、金曜日に大阪にお越しになりますけれども、東京での政治日程をすべて終えられてから来られるわけですけれども、関西としてはどういう話をされたいというお考えですか」

知事:「これは、唐国務委員、楊外交部長、また、僕自身が上海に行って韓正市長ともお話をして、一貫して言っていることは、外交問題に関しては、これは政府間、東京と北京できちんと話をしていただくと。もちろん、私は地方行政の長ですから、国の外交方針に従った行動をとることを前提に、ただし、関西は、外交問題と関係なく、来られた方々をとにかく地方として歓迎、歓待するという方向でやっていきたいと思っています。これに関しましては、いろいろご意見があるかと思いますけれども、政治的な主張や外交は、特に外交問題は内閣の専権事項だと私は思っていますので、その内閣の外交に反しない範囲において、関西はある意味、政府間交渉の最後の安全保障といいますか、そういう意味において関西は、これはどこの国に限らず、肩ひじ張らないおつき合いをしていきたいと思っています。
ですから、政府で、困ったときには、関西を最後の安全弁というか、そういうルートがあるという形に関西を置きたいと思っています」

 http://www.pref.osaka.jp/koho/kaiken/20080507.html

この発言自体をどうこう言うつもりはない。
「社交辞令」ということもある。
「地方行政の長」は「国の外交方針に従う」のは当然のことだ。
従えない方針があるから、次は国政に出ようという話にするのだろう。

最大の問題は、記者会見での発言ではなく、その後、実際に「拝謁」した時のその親玉に対する態度にあった。挨拶に立ったその時、明らかに震えていたのだ。言葉も震え、挨拶そのものも誠に要領を得ないものであった。何に怯えていたのかは知らないが、緊張の極みにあったことは、誰の目にも明らかであった。

どうもそういう性格のようである。
何かに対する「極端な劣等感」を持っているのである。

劣等感の強い人間は、強烈な攻撃性を持っている。

その劣等感を見抜かれることが最も辛いことだから、暗部を気取られない為にも徹底的に相手を攻撃する。「自らの行動を評価せよ」と迫る。「口舌の輩だ」と侮辱する。全ては動くしか能の無い自分を隠す為である。何度も書いてきたように、「人が行動により評価される」のは当然である。この当然を逆手に取るのが、その手口である。

劣等感の強い人間に対しては、警戒心を持つ。持つべきである。そして、これは庶民の智恵である。何故なら、そうした人物は、前半から中盤までは好調に働くが、終盤、最終盤に「必ず間違う」からである。人生の終わり、物語の終わりは「劣等感に基づくモチベーション」では処理出来ないのだ。従って、その行動は決して完結せず、結局評価に値しないものに終わる。その結果、周囲の人は長期間に渡って騙されるのである。

我々は行動と共に、その行動の原動力となっている「人の内面」を見るべきである。少なくとも、あの無様極まる瞬間を映像として見た者は、この人物に「外交交渉を任せよう」などとは、絶対に思わないだろう。

要するに弱い者には強く、強い者には弱い。
自分の武器が通用する者には強く、通用しない者には弱い。
弱みのある者には強く、それが無い者には弱い。
そんな何処にでも居る「普通の人間」に過ぎないのである。

このことを非難したところで仕方がない。結論は、普通の人間なら「普通に暮らしておけ」ということだ。政治の世界で、弁護士特有の恫喝手法が通用するのは、極めて限定的である。あのような「軽量級の外国要人」に対して、あの態度では、他は推して知るべしである。もしあれが、「何とか大革命の首謀者」であったなら、と考えるとゾッとする。

そういえば、国交の無い国にわざわざ出掛けていって、歓迎のレセプションとやらで、「機械化された子供達」のマスゲームを見せられて、震えるほどに感動したと宣った「委員長」やら「書記長」やらが居た。差別にことさら五月蠅いこの連中が、あのような子供達に「奴隷の姿」を見出さないのが不思議で仕方がない。

同じ臭いがするのである。独裁政権の親玉には真っ先に媚びる辺りにこの連中の奇怪な共通点がある。


西の都が本当に「都」になったなら、それは終わりの始まりではなく、まさに「終わりの終わり」だろう。その副作用として、いかがわしき者達を排除できれば、少しの救いはあるかもしれない。しかし、仮に排除できたとしても、それが新種の「いかがわしき者達」を招き入れる作用しか果たさないとしたら、まさに終わりである。

人々は「ミスター劣等感」に一体何を期待しているのだろうか。