夕刻の備忘録 様のブログより。
天皇の埋葬“火葬”に見直しへ
宮内庁は、天皇や皇后が逝去した際の埋葬方法について、天皇皇后両陛下の意向を受けて、土葬から火葬に変える方向で具体的に検討を進めることになりました。合葬も視野に入れるということで、350年余り続いてきた埋葬方法が大きく変わる見通しです。
【中略】
これらの方針は、すでに皇太子さまと秋篠宮さまにも伝えられ、お二人とも異存はなかったということです。
火葬や合葬が行われれば、「陵」の縮小につながり総工費も減る見込みで、埋葬方法が大きく変わる見通しです。
こうした検討は、10年ほど前から水面下で進められていましたが、発表が今の時期になったことについて、宮内庁は「かねてよりの懸案だったが、天皇陛下の手術後の回復を待ち、改めてご了解を得てきょうの発表になった」と説明しています。
【中略】
両陛下の埋葬方法の見直しが進められることについて、象徴天皇制の研究を続け、日本人の埋葬の歴史に詳しい宗教学者の山折哲雄さんは「これまでと同じような陵を造るということになれば、広大な敷地や多額の費用が必要となるため、国民に大きな負担になると考えられたのだと思います。常に国民とともに歩みたいと考えられているおふたりにとっては、葬儀も国民と同じく、そしてできるだけ簡素にしたいと希望されたのだと思います」と話しました。
さらに、両陛下が合葬を希望されていることについて、「おふたりがこれまで築き上げてきた家族の在り方をみると死後も同じ場所でご一緒に、と思われるのは自然なことだと思います」と述べました。
また、350年余り続いてきた埋葬方法が大きく変わる見通しとなったことについては、「両陛下が、これからの皇室を考えていくうえで、今後も国民とともに歩んでいくのだという気持ちを改めて表されたのではないかと思います」と話しています。4月26日19時26分
敬語の使えぬNHKが、日本国民から受信料を徴収し、近隣諸国には無料で電波を垂れ流す。彼等が日本の放送局を名乗るのは如何なる理由からなのか。
一昔前なら『天皇と皇后を一緒に埋葬する』の件で、ショック死する老人がかなり出ただろう。これではまるで仙谷や枝野の旧来の主張の切り抜きではないか。
「崩御」を避けて逝去と書く。
「殿下」を避けて“さま”と書く。
「火葬」に「土葬」に「合葬」にと並べ立てる。
まさに不吉かつ不潔なる輩の言行一致の所業である。
最終段の山折哲雄の発言は、見事に印象操作に組み込まれている。おそらく発言の内容に関しては、この通りだろう。しかし、巧みに切り貼りし、自分達の主張に沿うように填め込まれている。
「広大な敷地や多額の費用が必要となるため、国民に大きな負担になると考えられたのだと思います。常に国民とともに歩みたいと考えられているおふたりにとっては、葬儀も国民と同じく、そしてできるだけ簡素にしたいと希望されたのだと思います」
山折氏はこう語ったようではあるが、その「賛否」は明らかにしていない。状況を分析し、陛下のお考えを「推察」しているだけである。しかし、この文章の構成では、あたかも高名な宗教学者も賛意を表したかのように読める。それが製作者の意図であろう。
確かに、この「推察」は間違ってはいないだろう。両陛下が費用のことを気に掛けられていることは間違いない。この不況下に、しかも皇室に関わる費用が次第に減額されてきた中で、今上陛下が次の御代のことも考えて、「出来る限り質素に」と希望されることは充分に有り得ることである。
しかしながら、高々「経費の問題」を、天皇皇后両陛下に御心配をお掛けするとは、まさに「国民としての恥」である。国民の一人として、恥ずかしくて、悔しくてならない。
大喪の礼も即位の礼も、きちんと出来ない国家に成り果て、金勘定しか出来ない国民に成り下がった。天皇陛下が長く続いてきた歴史と伝統に対して、「時代の流れに則していない」として多少の違和感を感じられることはあっても、それを積極的に嫌い、廃するお考えに傾かれることは有り得ない。
それでは宮中祭祀に悉くメスが入れられることになる。当然のことながら、治世の移り変わりに伴う儀式は、今上陛下の御一存で論じられるものではなく、歴史が自然に定めてきたものであり、日本に生まれ日本に育ち、そして死んでいった「全ての日本国民の総意」の上に成り立ってきたものである。
それをさらに越えて、陛下が御心痛になられるということは、どれほど国家の病が深く、国民が疲弊しているかということである。如何に陛下がこの点を気に掛けておられるかということである。我々今を生きる日本国民は、二千年を越える歴史の前で「大恥をかいている真っ最中」なのである。
★ ★ ★ ★ ★
元より、陛下の深きお考えを知り得ない我々は、勝手な推察に基づいて、あれこれ論じるべきではない。論じるべきではないと知りながら、この種の報道に接する度に、はらわたが煮えくり返る思いがする。一度抱いた不信は消えることがない。そして、その不信感は日々増強されることはあっても、解消されたことはない。
我々はもはや宮内庁を「敵」と見倣すべきではないのか。両陛下は既に「囚われの身」として、日々を過ごされているのではないか。政府を倒すことは容易いことである。今のところ、我が国には「選挙」がある。マスコミに如何に誤誘導されようと、政治家は選挙で落とせる。しかし我々には、宮内庁を「占拠」した者達を倒す手段が無いのだ。
この難問を解かねばならない。何としてでも、皇室周辺に屯する「いかがわしき者達」を排除しなければならない。占拠に選挙が無効であるならば、残る手段は「非暴力の実力行使」以外にない。メールにしろ、電話にしろ、デモにしろ、抗議街宣にしろ、自らのブログでの発信にしろ、ツイッターでの拡散にしろ、手段は何でもよい、徹底的に「実力」を以てこれに対抗するしか他に方法はあるまい。陛下の「救出」は臣民の義務、その筆頭ではないか。
相手側は「我々は陛下のお考えに沿って……」と反論不能の決め台詞を吐くだろう。しかし、我々には我々の考えがある。その考えが如何に愚かなものであっても、それを「陛下に届け」とばかりに叫ぶことは出来るのだ。民の竈の故事に倣うならば、痩せ我慢をしてでも、竈に火をくべ、「陛下、御安心下さい」と叫ぶことは出来るのだ。