【土・日曜日に書く】ワシントン支局長・佐々木類
悲しい歴史
不思議な体験だった。日本固有の領土、東シナ海の尖閣諸島への上陸取材から帰京した平成9年4月29日のことだ。原稿を出し終わり帰宅途中の午前2時半ごろ、高速道路でタクシー同士の物損事故に遭った。幸いけが人はなかったが、出口を間違え無理な車線変更をした相手の車は大破した。
記念に拾った尖閣諸島最大の魚釣島の小石が守ってくれたと思った。だが、島には悲しい歴史がある。持ってきてはいけなかったと直感し、翌朝、尖閣諸島に同行した川満安次船長に聞いてみた。「島の小石? 持ってきちゃだめサー。いっぱい亡くなっとるからサ」
その足で、近所の社務所に相談に行った。私の両手の小石をみた神主がみるみる顔をひきつらせ、「その石、早く参道にまきなさい」と言った。言われた通り丁重にまくと、何かがスッーと身体から抜けてゆくような気がした。魚釣島に眠る多くの御霊(みたま)に申し訳ないことをしてしまったと反省した。
島には約70人が眠る。尖閣諸島疎開船遭難事件だ。昭和20年7月3日、沖縄県石垣島の婦女子や傷病兵など約180人を乗せた2隻の疎開船が台湾へ向かう途中、米軍機の攻撃で1隻が沈没、残る1隻は魚釣島にたどり着いたが、飢えと病で多くが絶命した。島は固い岩盤に覆われ、遺体は埋葬できずに小石を積んで弔った。
壊された慰霊碑
先日、石垣市在住の「尖閣列島戦時遭難者遺族会」会長、慶田城用武(けだしろ・ようたけ)さん(69)に電話で話を聞いた。慶田城さんは2歳の時に悲劇にあった。姉=当時(5)=は銃撃で死亡した。母親=同(32)=と妹=同(10カ月)=と45日間、魚釣島で救助を待った。慶田城さんが中学生のころ、母親が重い口を開いて教えてくれたという。クバ(ビロウ)の木の芯を食べて飢えをしのぎ、救援を呼ぶ8人の決死隊が小舟をつくり、石垣島にたどりついた。
私が上陸したのは、尖閣諸島を行政視察した石垣市議会の仲間均議員=当時(48)=の調査を取材するためだった。ヤギの群れがこちらを凝視し、カエルの甲高い鳴き声が潮風に乗って島を渡る。慰霊碑に手を合わせた。風化が激しく補修が必要だと思った。
しかし、事件は平成16年3月24日に起きた。中国人活動家7人が魚釣島に上陸。10時間後に出入国管理法違反で沖縄県警に逮捕された。仲間氏が後に再上陸したところ、慰霊碑やカツオブシ工場跡地の一部が破壊されていた。
昨年8月、中国黒竜江省の旧満蒙開拓団の慰霊碑が同国の反日活動家に破壊された。一般人の墓を壊して英雄視する彼らと、たとえ政敵でも故人は篤(あつ)く弔う日本人の精神構造の違いを再確認しつつ、島と慰霊碑を守らねばと思った。
魚釣島で慰霊祭を
執拗(しつよう)だった。私に対する日本政府の恫喝(どうかつ)である。石垣市内では県警と公安調査庁に尾行された。海上保安庁は、「上陸したら逮捕する」と警告し、尖閣諸島に向かう洋上では事情聴取を受けた。
名を名乗り、上陸目的を告げたが、朝日新聞は平成9年4月28日付朝刊社会面で「2人は氏名は名乗ったが、目的は答えなかったという」と報じた。中国には配慮するが、自国民には居丈高だった日本政府。旧知の古川貞二郎官房副長官(当時)は遺憾の意を表明し、それを中国外務省が評価した。
この延長線上にあるのが、中国国内で人質を取られ、腰砕けとなった一昨年秋の中国漁船衝突事件だ。漁民を装った民兵や海洋調査船を使って、日本に揺さぶりをかけてくるのは一貫して中国だ。軍事大国化した一党独裁国家が、島を本気で奪いに来ているのである。
日本政府の不作為は「粗暴な大国」(仏紙ルモンド)の冒険心をくすぐるだけだ。米国は尖閣諸島に日米安保条約を適用するといっている。だが、島を奪った中国が施政権を宣言した場合、それが東京都の所有であれ、政府所有であれ、もたつく日本政府の態度を見たら、米国世論は米軍の若い兵士が血を流すことを許すまい。
自衛隊の常駐や日米合同軍事演習など、領土を守る国家意思を日ごろから態度で示し、国際世論を日本支持に醸成していく外交努力こそ、日米同盟を機能させ、将来の「不測の事態」を未然に防ぐ効果的な手立てなのである。
それができないのなら、せめて魚釣島での慰霊祭を認めたらどうか。石垣市の中山義隆市長は昨年6月、上陸許可を申請したが黙殺された。慰霊祭にまで難癖をつければ、彼らが一番恐れる国際世論の批判にさらされ、動きを封じられるのもまた、確かである。
(ささき るい)