「強制」の記述は改めるべきだ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【解答乱麻】元高校校長・一止羊大





 平成25年度から高校で使用される教科書の検定で、国旗掲揚や国歌斉唱の義務づけに関して「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述した教科書が合格した。「一部の自治体」とぼかしてはいるが、それが大阪を指していることは見え見えである。「強制」という表現は不適切ではないかとの指摘に対して文部科学省は、「職務命令をもって命ずるということを『強制』と表現することは誤りといえない」と答えたとのことである。

 困ったものだ。文科省のこの無味乾燥な物言いはいったい何だろう。これでは、「強制」に込められた本来の意図に目をつぶり、字義を形式的に説明しているだけではないか。国旗・国歌指導の義務づけに反対する教員が「強制」とか「押しつけ」と言うときには、特殊な意味を込めているが、文科省はそれを「知らない」とでも言うつもりなのか。

 法令等で何らかの行為が求められていることについて、私たちは一般に「強制」という言葉は使わない。「義務づけられる」「課される」などと表現するのが普通である。たとえば、「就学の義務」とは言っても「就学の強制」とは言わないのだ。

 ところが、「日の丸」「君が代」に反対する教員の多くは、国旗・国歌指導の義務づけをことさら「強制」「押しつけ」と表現する。「日の丸」「君が代」に対する「反発」「拒否」「否定」「否認」などのネガティブな感情を込めてそう言うのだ。つまり、彼らには「日の丸」「君が代」を国旗・国歌とは認めたくないかたくなな気持ちがあり、認めたくないものを国旗・国歌として指導させられるのは「強制」であり「押しつけ」だとする彼ら一流の論理が働いているのである。彼らにとって「日の丸」「君が代」はあくまでも「日の丸」「君が代」であり、彼らが自分の意思でそれを国旗・国歌と呼ぶことはない。これは、国旗・国歌法が施行されている現在も一貫して変わらぬ彼らのスタンスだ。この奇妙な論理は自虐史観に基づく戦後教育の落とし子といえようが、一般の良識ではとても受け入れ難いものである。

このような極めて特異なイデオロギーに拘泥する学校の先生たちが、「強制反対」を叫んで抵抗し、法令等の規定など歯牙にもかけず、国旗・国歌の指導を拒否してきた。大阪でもその傾向が顕著で、条例まで制定して徹底せざるを得なくなったわけだが、教科書がそれを「強制」と記述するのは、大阪の対応への批判メッセージだと受け止められても仕方がない。教科書の執筆者自身が、国旗・国歌の指導に反対している学校の先生たちと同様の論理を共有していることを告白しているようなものだ。この教科書を使う子供たちは、「強制」という表現に込められた意図を敏感に感じ取るに違いない。教育上の悪影響は目に見えている。

 国旗・国歌の指導を拒否する先生たちの処分が相次ぎ、裁判も繰り返されてきた。今年の春も、多くの先生たちが処分を受けた。イタチごっこは今後も続くだろう。このような喧噪(けんそう)と経緯を熟知しているはずの文科省が、教科書に「強制」という不適切な記述があっても、その字義を形式的に捉えただけの対応でお茶を濁している。許されないことだ。

 今からでも遅くない。文科省は、「強制」の記述を改めるように教科書会社を指導すべきである。

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【プロフィル】一止羊大

 いちとめ・よしひろ (ペンネーム)大阪府の公立高校長など歴任。著書に『学校の先生が国を滅ぼす』『反日教育の正体』。