【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂
東京都の石原慎太郎知事が米国で講演し、「東京都が尖閣諸島を購入する」と発言したことが論議を呼んでいる。
全国紙の社説では、産経が「有効な提案だ」、読売が「重要な一石を投じた」と石原発言を評価した。これに対し、朝日は「都の仕事ではない」、毎日と日経も「筋が違う」と石原氏を批判した。
朝毎・日経3紙の主張は「領土保全は都の役割ではない」という点で共通している。しかし、国はこれまで十分な領土保全策を講じてこなかった。そこに問題があるとの視点が欠落している。
トウ小平発言を“信頼”
日中平和友好条約の調印を4カ月後に控えた昭和53年4月、尖閣諸島沖に100隻を超える中国の漁船が現れた。多くの漁船が機銃や自動小銃で武装し、日本の海上保安庁の巡視船の退去命令を無視して領海侵犯を繰り返した。
当時の福田赳夫内閣が中国に抗議し、中国漁船は引き揚げたが、中国側は「事件は偶発的」と言い逃れた。国内では、自民党の一部から「調印を急ぐべきでない」との慎重論も出されたが、福田内閣は予定通り、その年の8月、日中平和友好条約に調印した。
尖閣諸島については、調印前、園田直外相と当時の中国の最高実力者、トウ小平副首相が会談し、トウ氏は「再び先般のような事件を起こすことはない」と約束した。日本はこれを信頼し、日本の領有権は条約で明確にされなかった。
2カ月後の10月に来日したトウ氏は尖閣諸島の領有権問題について「10年棚上げしても構わない。次の世代の人間は、皆が受け入れられる方法を見つけられるだろう」と述べた。福田内閣はこの「棚上げ」発言にも異を唱えなかった。
当時は中国の軍事力も経済力も今ほどではなかった。日本の領有権を中国に認めさせる機会を逸したといえる。
中国の抗議で政府動揺
その後、福田内閣から大平正芳内閣に代わり、領土保全策に変化の兆しが見られた。54年5月、森山欽司運輸相は尖閣諸島の実効支配を確立するため、最大の島、魚釣島に仮ヘリポートを建設する計画を明らかにした。
仮ヘリポートは同月下旬に完成し、尖閣諸島の地質、動植物や周辺の海中生物などを調べる学術調査団31人がへリコプターや巡視船で魚釣島に派遣された。
しかし、これに中国が抗議し、政府内が動揺した。園田外相は衆院外務委員会で「日本の国益を考えるなら、そのままの状態にしておいた方がいい」と仮ヘリポート建設や学術調査に反対の意向を示し、閣内不一致が露呈した。
大平内閣は調査を予定より早く切り上げさせた。その後、尖閣諸島に本格的なヘリポートや漁港、灯台などを建設する構想が一部で浮上したが、いずれも中国への配慮から先送りされた。
中国は解決を次世代に委ねるどころか、1992(平成4)年に尖閣を自国領とする領海法を制定し、2004年には中国人活動家7人が魚釣島に不法上陸した。
また、1996年9月、当時のモンデール駐日米国大使は米ニューヨーク・タイムズ紙で、尖閣諸島について「米軍は安保条約により介入する責務はない」「米国にとって、尖閣の地位は防衛条約が存在しない台湾の地位と似ている」などと発言した。
尖閣諸島は昭和47年5月、米国から日本に返還された沖縄に含まれることがはっきりしている。それを否定する問題発言だった。
しかし、このモンデール発言にも、当時の橋本龍太郎内閣は反応せず、国会議員を辞していた石原氏は本紙正論欄(平成8年11月5日付)で「現職の駐日大使がシナを気にする余り不用意にこの発言をしたとしたなら外交官として不適格としかいいようがなく、その発言の責任をとる必要がある」と指摘した。これが理由かは明確でないが、大使は更迭された。
鳩山元首相が無知を暴露
一昨年5月の全国知事会議で、石原氏は民主党の鳩山由紀夫首相(当時)に「尖閣諸島をめぐり、日中間で衝突が起こった際、日米安保条約が発動されるかどうか」と質問した。鳩山氏は「帰属問題に関しては、日本と中国の当事者同士でしっかりと議論して、結論を見いだしてもらいたい」と答え、尖閣をめぐる問題への無知と主権意識の欠如をさらけ出した。
その4カ月後の平成22年9月、中国漁船が領海侵犯を繰り返したうえ、日本の巡視船に体当たりするという事件を起こした。海上保安庁が公務執行妨害で船長を逮捕したにもかかわらず、当時の菅直人政権が外交的配慮から船長を釈放したことは周知の事実だ。
民主党も自民党も、尖閣諸島の領土保全策を怠ってきた過去を謙虚に反省すべきである。
(いしかわ みずほ)