【決断の日本史】1636年4月10日
■家光の心捉えた近江大工
天正18(1590)年7月、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、最大のライバルである徳川家康を関東に封じた。家康は太田道灌(どうかん)以来の江戸に入り、城下町の建設に着手した。
江戸城をはじめとした施設の造営は、家康の信任を得た法隆寺大工、中井正清(1565~1619年)に委ねられた。本貫地(ほんがんち)の三河(愛知県東部)にも大工はいたが、彼らの手には負えなかったのである。
正清が東国で手がけた建築は多岐にわたる。最晩年の業績は家康の廟所(びょうしょ)、久能山(くのうさん)東照宮と日光東照宮の造営であった。いずれも家康没後の元和(げんな)2(1616)年から翌年に行われた。
正清の仕事を継いで幕府作事方大棟梁(さくじかただいとうりょう)に任じられたのは甲良宗広(こうら・むねひろ)(1574~1646年)だった。彦根市の南に接する甲良町の出身で慶長9(1604)年、江戸に下向した。
「中井家に伝わる文書には、正清の下で宗広が日光東照宮の造営に参加した記録があります。とくに彫物(ほりもの)(装飾彫刻)が得意だったようです」
近世建築史に詳しい谷直樹・大阪市立住まいのミュージアム館長は言う。
寛永11(1634)年11月、祖父・家康を尊崇してやまない家光は日光東照宮の大造替(ぞうたい)に着手した。そして1年5カ月後の同13(1636)年4月10日、全く新しい社殿が完成した。
正清の手になる東照宮は、奥社の拝殿だけが群馬県太田市の世良田(せらだ)東照宮に移築され、今も目にすることができる。陽明門に代表される宗広の日光東照宮の建築群と比べ、格段に地味である。宗広ら近江大工が得意とした彫物の絢爛(けんらん)さが、派手好みの家光の心を捉えたのだろう。
甲良町には宗広が建てた甲良神社などの建築が残る。町役場の隣には、裃(かみしも)姿で曲尺(かねじゃく)を手にした彼の銅像が立ち、その偉業を伝えている。
(渡部裕明)