桜の下に千九郎を見た。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【東京特派員】湯浅博





中学、高校に進学した門出には、いつもあふれるばかりの桜花が迎えてくれる。春は草木の芽が「張る」や、気候の「晴る」の意味もあり、若い命が内から力強くふくらんでくる感覚である。

 他方で、折口信夫は桜の花を「見ていてつらい気がする」といった。日本人ははらはらと散る桜のはかなさを歌に詠んだ。

 桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

 江戸幕府の天領「小金牧」だった千葉県柏市にある麗澤大学を訪ねたときは、咲きふえそうな初桜であった。春の嵐をやり過ごした200本以上のソメイヨシノが、大地の恵みを受けて、日ごとにふくらみを増していた。

 キャンパスの桜は、創立者の廣池千九郎(ちくろう)が学生たちといっしょに植えたものだ。桜の下を歩くと、学生たちがあいさつの声をかけてくれて気持ちがよい。いかにも道徳科学(モラロジー)を打ち立てた千九郎の大学にふさわしい。その桜並木の起点に、廣池千九郎記念館があった。

 千九郎は近代国家を建設する時代の要請から、新しい国民道徳を樹立した思想家である。彼の名を不動にしたのは、明治の国家的事業だった日本最大の百科史料事典『古事類苑』の編纂(へんさん)である。

1千巻という膨大な書籍群で、千九郎が1人で編纂したものだけで232巻にのぼる。彼の読書量は「万朝報」の、「上野の図書館の書物をほとんど閲覧した人がいる。それは廣池千九郎大人という人だ」との記事で分かる。

 記念館の一室で、彼が類苑を編纂する際に引用した書籍の数とその質に圧倒された。和書、漢籍、洋書を合わせて3万2500点にのぼる。中国にもない『故唐律疏流義』があり、視察した中国科学院幹部も垂涎(すいぜん)の的であった。

 大分・中津出身の千九郎は慶応2年生まれ。郷土の先輩、福沢諭吉が創設した慶応義塾の姉妹校、中津市学校に学んで教員への道を目指した。千九郎のすごさは、師範学校へ行かずとも卒業免除の「応請試業」に受かり、学校をスキップしてしまうことだ。

 歴史への関心から『史学普及雑誌』を発刊し、京都市の『平安通志』や『古事類苑』の編纂を経て神宮皇學館の教授に就任する。大正元年に東京帝国大学に提出した論文により法学博士号を授与された。小学卒の博士誕生である。

 かくて千九郎は金融恐慌、中国大陸の不穏な世情から、新しい国民道徳の必要を感じる。彼の代表作となる大著『道徳科学の論文』の原稿を見ると、原稿用紙まで自ら線を引いてつくるほどのマルチ人間であることが分かる。

宗教学者の山折哲雄さんは、千九郎が福沢諭吉の影響を受けて、「一家独立して一国独立す」の体現者であると見る。別の研究者は新渡戸稲造の「武士道」が領主に対する忠誠心であるのに対し、千九郎は天皇に対する忠誠心こそが最高道徳に基づくと強調して新渡戸を批判しているという。

 千九郎は自然の中で独自の道徳哲学を教示するため、柏市に10万坪の広大な用地を取得し、道徳科学研究所を開設した。だが、明治の傑物にも強度の皮膚神経衰弱という持病があった。この難病によって体温を保持することができず、大正6年からカイロを20個も身にまといながら研究にはげんだ。

 やがて温泉が効果的であることを知る。全国90カ所以上の秘湯をめぐり、谷川温泉では源泉まで買い取った。昭和13年に死去するまで、道徳科学普及につとめた72年の壮絶な生涯だった。

 千九郎の一生は一気に駆け抜ける桜の生涯のようだ。彼が植えたソメイヨシノがやがて雨に散り、代わりに落葉樹が柔らかな葉を出すことだろう。緑が鮮やかさを増し、吹く風さえ光る季節がめぐりくる。


                                 (ゆあさ ひろし)