北方領土問題解決をにおわすプーチンの真意は何か?
2012.03.26(月)樋口 譲次:プロフィール
ロシアの大統領に返り咲いたプーチン氏が、北方領土問題の解決をにおわしている。
3月4日の大統領選挙に先立つ3月1日、まだ首相の立場であるのだが、一部外国メディアと会見し、日本との領土問題に関する質問に答えた。それについて、読売新聞(3月3日付)は以下のように伝えている。
プーチン大統領の真意を見抜け
3月4日夜(モスクワ時間)ロシア大統領選挙で当選を決めたプーチン首相〔AFPBB News 〕
プーチン首相は、北方領土問題について「互いに受け入れ可能な妥協点を探りたい」、また「我々は、大胆に前進しなければならない」と述べ、北方領土問題の最終解決を目指す意向を示した。
そして、「領土問題の解決が、(日本との関係において)本質的なものではなく、二次的なものになるような状況を作らなければならない」と述べ、日本との経済関係の発展を重視する姿勢を示した。
なお、氏は、2000年から2008年の大統領在任中、北方領土問題について、1956年の「日ソ共同宣言」が基本との考えを繰り返し、「2島引き渡しで最終決着」とする方針を示していた。
限られた情報ではあるが、プーチン大統領(5月7日就任予定、以下同じ)の真意は、明らかに「2島返還」である。
我が国にとって、北方領土問題は、今なお領土ならびに主権侵害にかかわる極めて本質的な問題である。
しかし、ロシアにとってはすでに解決済みの問題、2次的な問題であるので、早急にごたごたを解消し、自国にとって優先度の高い、しかし自国だけでは成し遂げられない極東ロシアの経済開発を日本の力(資金と技術)を利用して推進したいとの思惑が見え見えである。
北方領土問題は、歴史を振り返ると、ロシア(ソ連)の不凍港を求めた南下政策と飽くなき領土拡張政策の帰結である。
直接的には、第2次世界大戦の連合国のうち、米英露3国が戦後処理について秘密協定を結んだヤルタ会談の産物であり、またそれに基づく戦後処理の不完全・不徹底によるものである。さらには、戦後の米ソ対立がもたらした冷戦による現状(ヤルタ体制)の固定化が招いた結果であるとも言えよう。
そして、ソ連による北方領土の軍事占領と引き続く不法占拠には、後で述べるように、軍事的また地政学的な意図や要求が最大の動機となっていた事実は明白だ。それが、ロシアがあくまで「2島返還」にこだわる理由である。
ロシアにとって、安全保障は死活的かつ最優先の問題であるので、北方領土の返還については、はなから譲歩する気など毛頭ない。
しかし、「2島返還」であれば、4島占領によって獲得した軍事的・地政学的利益を失わずに維持できるので、部分的な妥協は可能ということなのである。つまり、ロシアの意図は、4島占領当時から、基本的に変わっておらず、終始一貫しているのである。
我が国は、この度のプーチン大統領による北方領土返還への言及に対して、決して安易な期待を抱いてはならない。
我が国が、プーチン大統領の真意を見誤り、ロシアの意図に対する具体的な対応策を欠いて、外交努力や経済支援のみに依存する従来の手法から脱却できなければ、北方4島全部を取り戻すことは不可能とは言えないまでも、極めて困難であると言わざるを得ない。
そして、プーチン大統領の下で北方領土返還交渉が始められたとしても、これまで日ソ・日露間で行った不毛の交渉の歴史を繰り返すことは、火を見るよりも明らかである。
ロシア(ソ連)の南下・拡張政策と日本
ロシアが、ウラル山脈を越え、シベリアを踏破して極東(カムチャツカ半島から千島列島)まで進出したのは18世紀の半ばから後半である。不凍港を求め、また領土拡張のため東進を続け、ものすごい勢いで沿海州まで侵出した。
そして、日本海に面した要衝に、軍事・商業の中心都市であり東方政策の拠点となるウラジオストク(港)を開基した。1860年の北京条約によって沿海州一帯を清国(中国)から獲得したからである。
以来、「東方を征服(支配)せよ」の言葉どおり、隙あらば付け入ろうと機会をうかがってきた。

我が国周辺では、江戸中・後期ころから、ロシア船が千島列島そして北海道近海へ出没するようになった。
ロシア人の択捉島上陸(1797年)、ロシア使節の長崎来航と貿易要求、これを幕府が拒否したことに対する樺太・利尻島などへの侵入と幕府船の焼き討ち(1804年)、測量のため千島列島で活動していたロシア艦ディアナ号の国後島での拿捕と艦長ゴローニン中佐らの抑留(ゴローニン事件、1811年)など、日露間では交易を行いつつ、小競り合いや衝突が続いた。
徳川幕府は、蝦夷地への関心と注意を一段と喚起され、大規模な北方調査を開始した。
1798年には、幕臣で探検家でもある近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。また、伊能忠敬は東蝦夷地の海岸測量を行い、間宮林蔵は樺太を探検して間宮海峡を発見した。
日本は、米使ペリーの来航(1853年)を機に、開国に踏み切った。そして、1855年(安政元年)2月7日、日露両国は伊豆の下田で日露通好条約(いわゆる下田条約)を締結し、初めて択捉島とウルップ島の中間線を国境とすることを確認した。
国境線以南は日本領土となり、樺太は日露両国民の雑居地とされた。
明治の初期、我が国は、米国の元廈門(アモイ)領事で極東情勢に精通していたリゼンドル(フランス系米国人、退役少将)を外務省顧問に登用した。
彼は、「北は樺太から南は台湾に至る一連の列島を領有して、支那大陸を半月形に包囲し、さらに朝鮮と満州に足場を持つにあらざれば、帝国(日本)の安全を保障し、東亜の時局を制御することはできぬ」と建言した。
この地政学的な安全保障観が、以降、我が国の北方政策および大陸政策を展開する基本となっていった。
我が国は、明治2(1869)年、北海道開拓使を設置するとともに、明治7(1874)年には、ロシアの侵攻に備えた北辺の守りと北海道の開拓を図るため、屯田兵例則を定めて本格的に足場固めを開始した。翌(1875)年には、樺太千島交換条約を締結し、千島列島全島が日本領土に、また樺太全島がロシア領土になった。
以後、日露(ソ)間には、さまざまな問題や紛争が生起し、両国関係に影響と変化を与えてきた。そのうち、主要なものは、日清戦争と三国干渉、日露戦争と樺太南半分の獲得、第1次世界大戦とシベリア出兵、満州事変などである。
これらの細部説明は省略するが、以下、北方領土問題の直接原因となった第2次世界大戦(大東亜戦争)以降の展開について振り返ってみよう。
第2次世界大戦(大東亜戦争)とヤルタ会談
ソ連(スターリン首相)は、欧州正面を主戦場としていたが、アジアで新たな戦いが始まって東西2正面作戦を強いられることは何としても避けたかったので、日本の動向には重大な関心と注意を払っていた。
一方、日本は、昭和11(1936)年11月25日、ドイツとの間で、共産「インターナショナル」(いわゆるコミンテルン)による共産主義的破壊に対する防衛協力を目的に「日独防共協定」に調印した。
本協定は、その後、イタリアが参加して「日独伊防共協定」になったが、1939年、「独ソ不可侵条約」が締結されたため、事実上、失効した。しかし、日本とドイツは再び接近し、「日独伊三国軍事同盟」の締結に発展した。
その上で、日本とソ連は、昭和16(1941)年4月、「日ソ中立条約」を締結したのであった。
日本は、昭和16(1941)年12月に真珠湾を攻撃してアメリカとの間で戦端をひらき、大戦はアジア太平洋にまで戦域を拡大した。
下斗米伸夫著『アジア冷戦史 』(中公新書)によると、ソ連は、すでにこの時点で、連合国側の勝利を予測して戦後秩序の構想作りに着手している。
同(1941)年、英国のイーデン外相は、ソ連の対日参戦を含む同盟協議のためソ連を訪問した。その際、ソ連は、対日参戦は頑なに拒絶したが、日独がもたらした犠牲への賠償と国境線の問題を取り上げた。
その中で、特に、アジア太平洋において、日本の軍艦が宗谷海峡、クリル(千島)列島、津軽海峡、対馬海峡を封鎖してソ連艦の自由航行を妨げるのは問題であると指摘している。
翌1942年に入って、ソ連は、欧州・アジアなどの戦後体制に関する外交資料を準備する委員会を設置した。そのアジア構想の中で、対日関係については、南サハリン(樺太)を返還させ、ソ連を太平洋から隔てている千島列島を引き渡すべきことを主張している。
ソ連は、1943年10月の米英ソ3国外相によるモスクワ会談、11月末の同首脳によるテヘラン会談などを通じて、米国と対日参戦問題を協議し始めていた。そして、1944年12月半ば、ルーズベルト米国大統領からの参戦要請に対し、スターリン首相は、ポーツマス条約で日本領となった南サハリン(樺太)と千島列島を代償として要求した。
このような過程を経てソ連の対日参戦が決まり、米英ソの3首脳が集まったヤルタ会談で、ソ連の要求が確認されるに至ったのである。
ヤルタ秘密協定におけるソ連の諸要求は、日本が敗北した後に確実に実行されるとの合意の下、ソ連は対日参戦することになった。
ソ連は、1945年4月5日、日ソ中立条約の破棄を通告した。本条約は、翌年4月に期限切れを迎えることになったが、この時期、我が国は、連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼した。
ソ連は、これを逆手に取って、曖昧な態度を取りつつ対日参戦の機会を窺った。そして、8月7日、ソ連極東軍最高司令部は軍事行動を命じた。翌8日、ソ連のモロトフ外相は、戦争状態に入ることを日本政府に通告した。
スターリンの別荘だった大邸宅内に併設された博物館のスターリン等身大蝋人形〔AFPBB News 〕
スターリン首相は、主作戦正面である満州方面での作戦が予期以上に進捗したので、朝鮮半島と並んで樺太および千島列島方面の作戦を急がせた。
そして、米国のトルーマン大統領に対して、ソ連軍の占領地域に千島列島全部を含めること、さらに、北海道の釧路と留萌を結ぶ線(いわゆる「スターリン・ライン」)以北の地域を含めることを繰り返し求めた。
その際、北海道占領を求める根拠は、日本のシベリア出兵に対する代償であると主張した。
トルーマン大統領は、ヤルタ協定で取り決めた以上、全千島列島の占領は認めざるを得なかった。しかし、北海道占領は拒否した。
では、なぜ、スターリン首相は、全千島列島の占領に加え、北海道占領を求めたのか。
ソ連が、北海道の東北部を領有すれば、千島列島と相まってオホーツク海を内海化(聖域化)し、他国の侵入や干渉を完全に遮断できる。同時に、宗谷海峡の航行の自由を確保するとともに、他国艦の通峡を阻止できる。
そして、万一、日本によって津軽海峡と対馬海峡が封鎖されたとしても、ウラジオストクの太平洋艦隊は、日本海~宗谷海峡~オホーツク海を経て太平洋への自由なアクセスが可能となるからである。
社会主義国となったソ連ではあったが、イデオロギー的要求は隠れ、軍事的・地政学的要求が第一義的に前面に押し出されている。つまり、これが、政権のいかんにかかわらずロシア(ソ連)が推進してきた対外政策・対外行動の基本姿勢であり、歴史が実証するロシアの本質である。
したがって、今日まで未解決になっている北方領土問題については、改めてこの核心的事実に焦点を当て、最大の関心を払い、具体的に軍事的・地政学的対応策を練って、現実的な展開を巻き起こす解決の道筋を作らなければならない。
戦後処理の不完全さと冷戦による現状の固定化
第2次世界大戦は、1941年6月22日のドイツによるソ連への電撃侵攻によって新たな段階に突入した。この時点では、米国はまだ大戦に参戦していなかった。
英国のチャーチル首相は、米国の対日参戦への期待等をもって米国のルーズベルト大統領と大西洋上で会談した。そこで調印されたのが「大西洋憲章」(1941.8.14公表)である。
本憲章は、両国による戦後世界に関する基本原則を述べたものであり、その第1項では領土の拡大を行わないこと、第2項では領土の変更は行わないことを固く定めている。
ソ連は、同年9月24日、「大西洋憲章への参加に関するソ連邦政府宣言」によって、英米が宣言した基本原則に同意することを表明し、大西洋憲章に参加した。
問題は、大西洋憲章に参加したソ連が、ヤルタ会談において領土の拡大変更を求め、英米がこれを容認したことである。
明らかに、大西洋憲章とヤルタ協定との間には、重大な矛盾が存在するが、これが米ソなど欧米流の冷酷なリアリズムであり、戦後処理に厄介な問題を残すことになった。
ソ連は、前述のとおり、日ソ中立条約を一方的に破棄し、条約の有効性を無視して日本に宣戦布告した。日本は、昭和20(1945)年8月14日、米英中ソの共同宣言である「ポツダム宣言」を受諾した。
ソ連は、我が国のポツダム宣言受諾後の8月18日から千島列島へ侵攻し、引き続いて北方4島を占領した。
日本は、昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約(平和条約)の発効によって主権を回復したが、南樺太および千島列島の領有権を放棄した。
日本政府は、講和会議後の国会で、いったんは放棄した千島列島の範囲に国後島および択捉島が含まれると説明したが、昭和31(1956)年2月、その解釈を変更した。
ソ連は、サンフランシスコ講和条約に調印しなかった。改めて行われた日ソの平和条約締結交渉では、日本の北方4島の全面返還要求とソ連の歯舞群島・色丹島の2島返還論が真っ向から対立し、合意に至らなかった。
そこで、平和条約に代えて、戦争状態の終了、外交関係の回復等を定め、平和条約の締結後、ソ連が歯舞群島および色丹島を日本に引き渡すことに同意するという条文を盛り込んだ日ソ共同宣言に署名した。
結局、日ソ平和条約は締結されることなく今日に至っており、日露間における戦後諸問題の最終的な解決には至っていない。
日本の立場は、当初、混乱したが、北方4島はいまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土であるとの絶対的な根拠を下に、あくまで4島の全面返還である。
一方、ロシア(ソ連)は、戦争で勝ち取ったものは渡さないというのが基本的姿勢だ。サンフランシスコ講和条約起草国のうち、アメリカは日本の立場を支持している。しかし、イギリスおよびフランスは、日本の立場に必ずしも好意的ではなく、この問題への関与に消極的である。
カムチャツカ西岸とオホーツク海の衛星写真〔AFPBB News 〕
このように、戦後処理は、矛盾に満ち、曖昧さを残したまま一貫性を欠き、いまだに不完全・不徹底である。
戦後間もなくして、東西冷戦が勃発した。冷戦の厳しい対立は、ヨーロッパ正面と極東正面において顕著であった。
特に、オホーツク海は、優れた生残性を持ち、第2撃以降の報復攻撃兵器として対米戦略核戦力の中心的役割を持つソ連のSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)搭載原子力潜水艦(SSBN)の潜伏海域となり、北極のバレンツ海と対極をなす極めて重要な位置づけにあった。
また、当時は、ソ連地上部隊による北海道・北日本への着上陸侵攻、そして宗谷、津軽、対馬の3海峡を打通してなされる日本の海上交通路(シーレーン)に対する攻撃など、ソ連の脅威が現実味を帯びていた。その抑止が、我が国防衛の焦点となり、同時に、日米同盟における共同防衛の最重要課題であった。
北方領土には1個師団、樺太に2個師団、カムチャツカ半島に2個師団そして沿海州に約10個師団(1個海軍歩兵師団、9個師団)、合わせて15個師団に及ぶ大規模な地上戦力がソ連極東軍管区内に配置されていた。北海道・北日本は、3方向から求心的に攻撃を受ける不利な態勢の下、大きな脅威に晒され続けた。
冷戦は、このような軍事的対峙を固定化し、当然ながら、北方領土の返還交渉は埒外に置かれた。そして、冷戦の終焉とともに、ヨーロッパ正面は急速な緊張緩和に向かったが、アジアではいまだに冷戦が終結しているとは言えない。
朝鮮半島そして台湾問題は未解決である。同じように、北方領土問題は、ヤルタ協定などに基づく戦後処理の不完全さ・不徹底から生まれ、冷戦によって現状が固定化されたまま、重い国家的課題として残されている。
軍事的・地政学的対応策を確立して、返還交渉に当たれ
今日までの日本とロシア(ソ連)の関係は、ロシアの不凍港を求めた南下政策ならびに飽くなき領土拡張政策と、これを努めて国土の遠方で阻止し、日本の安全を確保しようと努めてきた我が国との、数次にわたる対立と衝突そして宿命的な戦争の歴史であった。
2011年11月のAPEC首脳会議に際して行われた日露首脳会談で握手する野田首相とメドベージェフ大統領〔AFPBB News 〕
我々は、この歴史を断じて忘れるわけにはいかない。そして、北方領土問題も、まさにその延長線上に位置づけられ、優れて軍事・地政学上そして安全保障上の問題であるというのがその本質だ。
近年、ロシアにとって、沿海州・樺太から千島列島に至る地域は、石油・天然ガス等の資源エネルギー、漁業資源などの開発の面において、一段と重要性を増している。
また、地球温暖化の影響によって、北極海の氷が急速に縮小しており、同海における新たな航路や海底資源の開発がにわかに脚光を浴びるようになってきた。ロシアから見た、千島列島(北方領土を含む)の戦略的価値は高まり、極東ロシア軍の役割が大きくなるのは明らかである。
また、ロシアは、民主国家の体裁を取りつつも国内では強権支配体制を強化し、対外的にはグルジア侵攻や資源戦略の発動など地政学的・戦略的アプローチを露わにしている。そして、過去数年間連続して前年度比15%以上の急激な伸び率(2010年度の伸び率は減少)で軍事費を増大し、軍備強化に拍車をかけている。
特に、我が国北方領土において、軍事力強化の姿勢を鮮明にするとともに、本格的な軍事演習を行うなど陸海空にわたって活動を活発化させており、その脅威度は警戒レベルにまで高まりつつある。
加えて、港湾、空港、発電所等のインフラ整備や経済開発を推進するなど、自国領土であるとの既成事実化と実効支配の強化の動きを加速させている。
ロシアにとって、日本の北方4島、中でも国後島と択捉島は、オホーツク海を内海化(聖域化)し、他国の侵入や干渉を完全に遮断できる千島列島の「連結の要石」である。
一方、千島列島を連ねる海域は、全般的に水深が浅く、冬季には流氷の影響を受けるので艦艇(潜水艦を含む)の航行を制約する。しかし、国後島と択捉島の間にある国後水道は、幅約22キロメートル、水深は最大約500メートルと深く、流氷到達海域の南端に位置してその影響を受けにくい。
そして、歯舞群島、色丹島の存在によっても妨害されることなく、潜水艦を含めた艦艇がオホーツク海から太平洋へ自由に進出できる「交通の要衝」である。
また、択捉島は、千島列島中、最大の島で、かつて連合艦隊が真珠湾出撃に際して停泊した単冠(ひとかっぷ)湾という大きな入り海と大型飛行場の建設ができる十分な地積を有している。いわば、択捉島と国後島は、千島列島における「軍事・地政学上の最重要拠点」なのである。
つまり、軍事的、地政学的要求を第一義と考えるロシアにとって、歯舞群島と色丹島の2島返還はあり得ても、国後島と択捉島の返還は、現状の経済協力を中心とした外交的アプローチでは極めて難しいと言わざるを得ない。
戦争で失ったものは、戦争で取り返すしかない。このことは、必ずしもすべての領土問題に当てはまるわけではない。しかし、「力の信奉者」であり、「戦争で勝ち取ったものは渡さない」を基本姿勢とするロシア相手の北方領土問題に限って言えば、我が国は、国家としてその意思と覚悟を固めて掛からなければならない。
そこでまず、北日本、特に北海道に対するロシアの侵略を未然に防止する抑止の体制を強化する必要がある。そのうえで、沿海州・樺太から北方領土への戦力集中に難があること(日本と比較して)や冬季にオホーツク海が流氷に覆われ大規模な軍事力の移動を制約することなどロシア側の弱点を考慮に入れ、軍事的に北方領土を奪還できる力と態勢を早急に整備することである。
また、現在我が国は、非核三原則のうち「持ち込ませず」との兼ね合いで、宗谷、津軽、対馬の3海峡を特定海峡として領海3海里を採っており、ロシア艦艇の自由航行を許している。これを、国際法が認める領海12海里に変更してロシア艦艇の通峡や航空機の上空通過に圧力をかけ、封じ込め(包囲)の態勢を取ることも有力な選択肢である。
その代わり、ロシアが4島返還に応じれば、例えば、国境線を挟むことになる日本の択捉島から国後島とロシアのウルップ島からシンシル島までを含むエリアを非武装地帯(DMZ)に設定する。
そして、相互に警戒監視を除いた軍事力の配備は禁止するが、各島嶼間の通過は妨げないとの提案を行えば、ロシア艦艇(潜水艦を含む)の国後水道を経由する太平洋への出口確保という軍事的要求に合致して妥協点を見出せるかもしれない。
いずれにしても、ソ連(ロシア)による北方領土の軍事占領とそれに次ぐ不法占拠には、軍事的また地政学的な意図や要求がその根底にあるというのが歴史的事実であり、その点を重く認識しなければならない。
そして、日本は、軍事・地政学的あるいは安全保障上の対応策を確立することが不可欠である。
そのうえで、我が国の決意を示す軍事態勢を取りつつ、地政学的解決策を提示し、ロシアが欲する経済協力をテコとして、ヤルタ協定およびサンフランシスコ講和条約の当事国として重大な責任がある米英仏を中心とする国際社会を巻き込んだ粘り強い外交交渉を行えば、もつれにもつれた北方領土問題を打開し、解決する可能性の糸口が見えてくるに違いなかろう。