【主張】高松塚発見40年
奈良県明日香村の高松塚古墳から、極彩色の壁画が見つかって21日で40年になる。
海外でも大きく報じられ、今日にいたる「古代史・考古学ブーム」の火付け役となった。日本人の歴史好きの源泉ともなった発見だった。
昭和47(1972)年だから、末永雅雄・奈良県立橿原考古学研究所長はじめ調査の指導者はほとんど亡くなっている。報道にあたった大半の記者やカメラマンも現役を退いた。しかし、当時の新聞を繰れば、熱気がよみがえってくる。
高松塚発見の意義は、大きく2つある。1つは壁画が、日本列島で例のない鮮やかなものだったことである。特に石室の東西に描かれた女子群像は、スカート姿もあでやかで、人々から「飛鳥美人」と呼ばれて親しまれた。
2つ目はこの墓に葬られた人物をめぐってルーツ探しが始まり、朝鮮半島や中国大陸など東アジアの古代史の中で日本の成り立ちを考える新しい視点が生み出されたことである。壁画にしても副葬品にしても、大陸の影響抜きには語れなかったからである。
時期的にも、日本が高度経済成長を経て、社会全体に先祖の歴史や文化などを追究しようという機運と余裕が生じていたことが大きい。以後、遺跡が発掘されるたびに、その成果は新聞などで大きく報道されるようになった。
翻っていま、日本の社会は東日本大震災の発生や経済の停滞により、活気が失われている。平成12年に発覚した旧石器捏造(ねつぞう)問題の影響で、大きく扱われる考古学ニュースも少なくなった。
人々が祖先の営みに関心を抱き、国の成り立ちを知りたいと願うのは自然な感情である。そして幸いなことに、日本列島にはどこにでも、遺跡という形で人々の痕跡が残されている。
「考古学は地域に勇気を与える学問だ」と言ったのは、森浩一・同志社大名誉教授である。縄文時代を代表する三内丸山遺跡(青森市)は東北地方の人々の誇りであり、吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市など)は邪馬台国へのロマンをかきたててやまない。
大発見がもたらす感動や興奮をもっと大事にしたい。文化庁は地方で進められる発掘調査を、このような視点も持って指導していってほしい。高松塚発見から40年の国民の願いである。