【決断の日本史】1299年10月8日
■スパイと疑われた禅僧
日本への2度の征服戦争(文永・弘安の役)に失敗した元は、3度目の遠征も計画していた。フビライの後継者・成宗は正安元(1299)年、使節を派遣する。その役割を担ったのが、禅僧の一山一寧(いっさんいちねい)(1247~1317年)である。
一寧は、浙江省にある名刹(めいさつ)の住職をつとめる高僧だった。成宗の強い要請を断りきれず、引き受けた。元の使節はことごとく斬首されていたから、命懸けだったに違いない。
何とか日本に渡り、10月8日、鎌倉で執権北条貞時に成宗の国書を手渡した。内容は不明だが、服属と通航を求めたのだろう。しかし、貞時らは信じず、一寧を元のスパイと見た。
来朝にあたり、一寧は僧として最高の栄誉である大師号(妙慈弘済大師)を与えられていた。さすがに、大師の首を切るわけにはゆかず、貞時は一寧を伊豆・修禅寺に幽閉した。
しかし、一寧は学識、人格ともにすぐれた人物だった。周囲は次第にそれに気づいた。貞時は鎌倉建長寺を再建して住持とし、自らも帰依した。評判は都にも達し、正和2(1313)年には「京都五山」筆頭、南禅寺の第3世に迎えられる。
一寧は虎関師練(こかんしれん)、雪村友梅ら多くの優秀な弟子を育て、日本の土となった。「日本征服のための使節」が結果として、五山文学の隆盛など禅宗文化の豊かな実りを日本にもたらしたのである。
20年以上も昔、南禅寺の塔頭(たっちゅう)・南禅院で一寧の木像(国重文)を拝したことがある。没後間もないころの制作で、柔和な表情が彼の人柄を表しているように見えた。
「いつかこの像を、故国に里帰りさせてあげたい」
案内してくれた僧の言葉に、納得できる思いを感じた。(渡部裕明)