【東京特派員】湯浅博
江戸落語の噺(はなし)は吉原なくして成り立たなかった。旦那衆は女房の目を盗み、弾む心を抑えて吉原の遊郭にのぼった。それが証拠に、北村一夫の『落語地名辞典』には、この手の話が満載である。
「むかしは、申しあげるまでもなく、駕籠(かご)で通ったもので、そのほかには、舟というものがあります。山谷堀へつけて、それから土手をぶらぶら徒歩(かち)で行ったと言います…」(付き馬)
日本橋川を小舟で下り、隅田川に出てからそのまま山谷堀を遡上(そじょう)する。「山谷堀からあがって、通いなれたる土手八丁…」(千早振る)なのだ。浅草の言問橋の少し上流に今戸橋があり、昔はこの辺りから山谷堀へ小舟を入れた。目指すは吉原大門である。
いまは堀が埋め立てられて公園になり、そんな風情は失われている。辛うじて堀跡沿いの桜のつぼみが春を待ちかねている。ちなみに、今戸橋近くの丘上にある待乳山聖天堂は、男女が歓喜を交わす秘仏が本尊でいかにも“吉原口”にふさわしい。
山谷歩きを思い立ったのは、この先の「日本堤」にちなむ話に驚かされたからだ。元和6(1620)年に、この浅草聖天町から三ノ輪まで約1・3キロの堤が築かれた。それは風流のためではなく、隅田川の洪水から浅草の市街地を守る片側堤であった。
地名学者の楠原佑介さんからいただいた『この地名が危ない』(幻冬舎新書)で、それを知った。楠原さんが引用する『江戸名所図会』の中に、日本堤についてこんな記述があった。
「…小塚原の裏より橋場総泉寺のあたりまで、水除けの堤一条あり。この堤を合わせて二条なり。俗に一本二本などといへるこころにて、二本堤と号しけりとぞ」
なるほど、これが日本堤という大きな名前の由来であったか。
現在の地図をながめると、待乳山聖天から「土手通り」が北西に延びていく。実はこれが山谷堀沿いに築かれた堤の名残で、台東区の住居表示変更前はこの辺り一帯を山谷と呼んだ。片側堤だから洪水が発生すると、いまの橋場、清川、日本堤、今戸の一帯は水浸しになる。いまなら、住民無視の堤防建設に、堤の東側住民から撤去運動が起こるところだ。
江戸っ子はこの事実を知ってはいたが、それを正直に「一本堤」と呼んではご政道批判になることを恐れた。逆に「二本堤」では事実と異なる。そこで「日本堤」なる絶妙の名称を考案した。それを知ってか知らずか。明治の俳人、正岡子規は「牡丹載せ今戸へ帰る小舟かな」と美しく詠んだ。
土手通りの吉原大門前を過ぎて、すぐ右のアーケード「いろは会」商店街を行く。店先の日替わり定食の持ち帰り弁当が、350円なり。ここは梶原一騎作、ちばてつや画の人気漫画「あしたのジョー」のふるさとであった。
「あしたのジョー」は昭和48年まで5年間、少年雑誌に連載された。山谷のドヤ街にふらりと現れた少年、矢吹丈が天性のボクシングセンスで宿敵と闘う情熱と友情の物語である。日本堤から清川にかけては格安旅館が軒を連ね、往事の雰囲気を濃厚に残す。「全館個室カラーテレビ付、一泊1800円」の安さに仰天した。
かつて山谷暴動の中心地、山谷交番近くには、「歩行者寝込み注意」の立て看板があった。だが、時代は変わった。車座の男たちが昼酒を楽しむ横を、欧米からの若者たちが通り過ぎていく。近頃は、バックパッカーが格安旅館に宿泊し、気儘(きまま)な下町探訪をしているそうだ。
華やかな吉原から安宿街まで、山谷堀の原風景は変幻自在だ。
(ゆあさ ひろし)