教育勅語(3) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【消えた偉人・物語】「軍国主義」とは無縁の精神






教育勅語が渙発(かんぱつ)された翌明治24(1891)年、文部省は「小学校教則大綱」を公布した。ここでは、「修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養(かんよう)シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」(第2条)として、修身教授が、教育勅語に基づくべきことを明確にした。

 この方針は、昭和20(1945)年の敗戦まで堅持され、修身教授では、孝悌(こうてい)、友愛、仁愛、礼敬、義勇、恭検などの徳目を教えることが基本となった。

 国定修身教科書においても教育勅語は重視された。第4学年以上の教科書にはその全文が掲載され「教育ニ関スル勅語」「大御心(おおみごころ)の奉体」などの項目で教育勅語の徳目が説明された。ここでは、教育勅語を「明治天皇が我等臣民のしたがひ守るべき道徳の大綱をお示しになるために下し賜はつたもの」とした上で、その内容が詳しく説明されている。

 戦後の教育史では、教育勅語の第2段の徳目のうち、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の部分のみを強調するものが目立った。これらの多くは、教育勅語が「天皇のために戦争で死ぬことを国民に強要した」と解釈し「軍国主義」と結びつけて論じた。

しかし、教育勅語の徳目は、家族から社会、国家の一員としてのあり方へと連続・拡大する構造となっている。したがって、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」には、「父母ニ孝ニ」以下の徳目すべてが掛かるのであり、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だけを強調することは教育勅語の趣旨をゆがめることになる。

 また、東宮御学問所御用掛(とうぐうおがくもんじょごようがかり)(倫理担当)だった杉浦重剛(しげたけ)は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の意味をこう説明している。「国家に一旦危急(ききゅう)の事変あれば、国民たるものは、正義の勇を奮つて、国家の為めに尽すべし。義勇とは、正道を行はんために現はすの勇気にして、換言すれば正義より起る勇気なり。公に奉ずとは、義勇を奮つて国家のために一身を捧ぐるを云ふ」(『教育勅語-昭和天皇の教科書』)

 これは国民としての当然の責務を論じたもので「軍国主義」とは無縁である。戦後教育に欠落しているのは、教育勅語を正しく理解し、正当に評価する姿勢とその努力である。

                          (武蔵野大学教授 貝塚茂樹)