夕刻の備忘録 様のブログより。
政治家が持つべき思想、その根幹に位置すると「思われて」いる国家観について述べてきた。そこでは二種類の言葉を使い分けた。括弧無しの国家観と所謂「国家観」の二種である。
その意味上の違いは明らかであろうが、それでもなお読者の便宜のために、何故その旨を断らなかったのか。その理由は、一応は両者を区別して書きながらも、実は「大した違いは無い」と考えるからである。
言葉が濫用されると、どうしても但し書きが必要になる。私の意味で、あなたの意味では、所謂云々と、言葉の意味を精密に、誤解無く伝わるようにする工夫を強いられる。しかし、それもある限度を超えると、虚しい努力に終わってしまう。今さら「愛」だの「平和」だの「民主主義」だのといった言葉に、どれほど注釈を並べたところで、議論が噛み合わないことは何も変わらない。
その一つの証拠が、遂に合流するのではないかとまで言われている、旧知の間柄である石原都知事と平沼議員の、大阪市長の「国家観」に対する見解の相違である。この真正面からの食い違いが既に、この言葉の「終了」を意味しているのではないか。この言葉を巡って交わされる如何なる議論も、愛と平和と民主主義の如く空を舞い、風に乗り消えていくだけではないのか。それが言葉の区別を明記しなかった理由である。
★ ★ ★ ★ ★
しかし、この問題を主題にする以上、主題たる言葉を使わずに論ずることは出来ない。そこで再び「国家観」の問題に戻れば、それを「ある」とする石原の立場も、「ない」とする平沼の立場も肯定せざるを得なくなる。何しろ言葉の定義が不明なのであるから。それぞれの人物が、それぞれの定義に従って「ある・なし」を論じられれば、当事者以外はこれに反論する意味を持たないのである。
ここでは仮に「ある」としてみよう。
ならばそれは如何なる「国家観」であるか。
簡潔に言えば、「負け犬の国家観」である。
それは劣等感に誘導された「国家観」である。「国家観」が自虐的なのではなく、自虐的人物の描く「国家観」そのものだと言えるだろう。劣等感と優越感は表裏一体であり、自虐は独裁へと変貌するのである。
先ず、我が国に対する現状認識が誤っている。改革や維新を唱える人間は、二言目には「閉塞状況の打破だ」と吠える。そして「ここまで落ちた以上、大鉈を振るわない限り日本は滅びる」と叫ぶ。これを「危機の売人」と呼ぶ。
確かに我が国は内外に複雑な問題を抱えており、楽観視出来ない状況にある。しかし、それは彼等が大好きな「世界規準」から見て、基準値を大きく下回るほどのものではないのだ。「ここまで落ちた」のここまでが、何処までなのか、全く不明なのである。
デフレ問題は極めて深刻であり、震災の復旧すらままならず、雇用も賃金も年金も、加えて領土までも侵犯されていながら、手を拱いているだけの現政府の対応は、まさに万死に値するものである。それでも我が国の現状は、世界規準から見て、高度に安定していると言える。これをして「地の底」と嘆けば、世界中の反感を買うレベルにある。
この点から出発しない議論は、危機を煽って益を得る売人の所業であるか、現状を認識し得ない愚者の狼狽であるか、はたまた根本的に「怨念と施しの政治」しかできない政治屋の政治宣伝であるか、その何れかである。
極端な発言、極端な行動によって「極端な改革」を実現しようと試みる者は、その原動力を等しく劣等感に得ている。
己の出自や履歴を呪い、溜まりに溜まった怨念の捌け口として、政治家という職業を選び、その政治力をもって過去を払拭し、自らの人生を逆転させようとしている。その本人自身の「人生の改革」に我々が付き合わされているのである。
従って、彼等の政治は必ず「施し」を伴う。民主党政権が「手当」という名の現金配りが大好きなのは、このためである。これは彼等の「弱者様に対する施し」なのだ。「パンが無ければケーキを食べればいいのに」と、かつて「パンも食えなかった」と自称する「心の貧民」は嘯いてみたくてしかたなかったのである。施しに侮辱を感じた者は、後年、他者に施すことで、漸くそのトラウマから解放されるのである。
擦り寄ってくる者には「施し」をなし、反発する者には強権を持ってこれを排除する。そこから出て来る「国家観」は、まさに負け犬が転じて勝ち名乗りをあげた「逆転の国家観」であり、全ての国民を危機に曝して、一向に気に掛けることすらない極めて危険なものである。
★ ★ ★ ★ ★
彼等の「国家観」は、国家と国民を自らの賭の対象にするものであり、我々はギャンブルの対象として弄ばれているのである。これは何も憶測で言うのではない。本人自らが既に、「ここまでの改革は要らないというのなら、沈む日本と共に滅びればいい」と自白してくれているではないか。しっかり「自分だけは生き残る」つもりではないか。
要するに、我々は「負け犬の人生ゲーム」に付き合わされているのだ。自分に自信のある人間は、功を焦らないものである。長いスパンでものを考えるものである。他人に対するリスクに鋭敏であり、その結果が自分に返ってくることを恐れるものである。
それは決して保身ではない。極めて長期間を必要とする「事態の改善」に向かって、初動段階でミスすることは許されないからである。周りの変化に気を配りながら、一歩一歩進むものである。自分の才能に自信がある人間は「一か八か」の賭はしない。ましてや、国家や国民を賭の対象にするような異常行動は取らないものである。
その最大の証拠は、彼等は「改革の失敗後」を決して語らないことにある。仮に「府が都に成った」として、そこで何を得るのか。成らなければ何を失うのか。成るでもなく、成らずでもなく、「中途半端な成り損ね」で終わった時、一体どれほどの損失を招くのか。それは府民が怠惰で、市民が妨害したからであって、「そんな連中は滅びればいい」というのが最後の言葉なのか。
大阪を賭の対象にするのは、まだいい。収拾がつかなくなれば国が乗り出すだけの話だ。しかし、日本を賭の対象にした場合、それを助けるものも組織も無いのである。断じて祖国をそうした状況に追い込まないというのが、本来の意味での国家観ではないのか。
忘れてはならない、民主主義を多数決の原理のみで強行すれば、最悪で「国民の49%が死ぬ」ということを、51%が生き残れば、それは肯定されるということを。国家を「観る」に際して、事前のリスク評価をしない「国家観」など、負け犬成金の「カジノ遊び」に過ぎぬのである。それをして「国家観」と呼ぶならば、政治家に「国家観」は不要である、と言わざるを得ないではないか。
その意味上の違いは明らかであろうが、それでもなお読者の便宜のために、何故その旨を断らなかったのか。その理由は、一応は両者を区別して書きながらも、実は「大した違いは無い」と考えるからである。
言葉が濫用されると、どうしても但し書きが必要になる。私の意味で、あなたの意味では、所謂云々と、言葉の意味を精密に、誤解無く伝わるようにする工夫を強いられる。しかし、それもある限度を超えると、虚しい努力に終わってしまう。今さら「愛」だの「平和」だの「民主主義」だのといった言葉に、どれほど注釈を並べたところで、議論が噛み合わないことは何も変わらない。
その一つの証拠が、遂に合流するのではないかとまで言われている、旧知の間柄である石原都知事と平沼議員の、大阪市長の「国家観」に対する見解の相違である。この真正面からの食い違いが既に、この言葉の「終了」を意味しているのではないか。この言葉を巡って交わされる如何なる議論も、愛と平和と民主主義の如く空を舞い、風に乗り消えていくだけではないのか。それが言葉の区別を明記しなかった理由である。
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しかし、この問題を主題にする以上、主題たる言葉を使わずに論ずることは出来ない。そこで再び「国家観」の問題に戻れば、それを「ある」とする石原の立場も、「ない」とする平沼の立場も肯定せざるを得なくなる。何しろ言葉の定義が不明なのであるから。それぞれの人物が、それぞれの定義に従って「ある・なし」を論じられれば、当事者以外はこれに反論する意味を持たないのである。
ここでは仮に「ある」としてみよう。
ならばそれは如何なる「国家観」であるか。
簡潔に言えば、「負け犬の国家観」である。
それは劣等感に誘導された「国家観」である。「国家観」が自虐的なのではなく、自虐的人物の描く「国家観」そのものだと言えるだろう。劣等感と優越感は表裏一体であり、自虐は独裁へと変貌するのである。
先ず、我が国に対する現状認識が誤っている。改革や維新を唱える人間は、二言目には「閉塞状況の打破だ」と吠える。そして「ここまで落ちた以上、大鉈を振るわない限り日本は滅びる」と叫ぶ。これを「危機の売人」と呼ぶ。
確かに我が国は内外に複雑な問題を抱えており、楽観視出来ない状況にある。しかし、それは彼等が大好きな「世界規準」から見て、基準値を大きく下回るほどのものではないのだ。「ここまで落ちた」のここまでが、何処までなのか、全く不明なのである。
デフレ問題は極めて深刻であり、震災の復旧すらままならず、雇用も賃金も年金も、加えて領土までも侵犯されていながら、手を拱いているだけの現政府の対応は、まさに万死に値するものである。それでも我が国の現状は、世界規準から見て、高度に安定していると言える。これをして「地の底」と嘆けば、世界中の反感を買うレベルにある。
この点から出発しない議論は、危機を煽って益を得る売人の所業であるか、現状を認識し得ない愚者の狼狽であるか、はたまた根本的に「怨念と施しの政治」しかできない政治屋の政治宣伝であるか、その何れかである。
極端な発言、極端な行動によって「極端な改革」を実現しようと試みる者は、その原動力を等しく劣等感に得ている。
己の出自や履歴を呪い、溜まりに溜まった怨念の捌け口として、政治家という職業を選び、その政治力をもって過去を払拭し、自らの人生を逆転させようとしている。その本人自身の「人生の改革」に我々が付き合わされているのである。
従って、彼等の政治は必ず「施し」を伴う。民主党政権が「手当」という名の現金配りが大好きなのは、このためである。これは彼等の「弱者様に対する施し」なのだ。「パンが無ければケーキを食べればいいのに」と、かつて「パンも食えなかった」と自称する「心の貧民」は嘯いてみたくてしかたなかったのである。施しに侮辱を感じた者は、後年、他者に施すことで、漸くそのトラウマから解放されるのである。
擦り寄ってくる者には「施し」をなし、反発する者には強権を持ってこれを排除する。そこから出て来る「国家観」は、まさに負け犬が転じて勝ち名乗りをあげた「逆転の国家観」であり、全ての国民を危機に曝して、一向に気に掛けることすらない極めて危険なものである。
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彼等の「国家観」は、国家と国民を自らの賭の対象にするものであり、我々はギャンブルの対象として弄ばれているのである。これは何も憶測で言うのではない。本人自らが既に、「ここまでの改革は要らないというのなら、沈む日本と共に滅びればいい」と自白してくれているではないか。しっかり「自分だけは生き残る」つもりではないか。
要するに、我々は「負け犬の人生ゲーム」に付き合わされているのだ。自分に自信のある人間は、功を焦らないものである。長いスパンでものを考えるものである。他人に対するリスクに鋭敏であり、その結果が自分に返ってくることを恐れるものである。
それは決して保身ではない。極めて長期間を必要とする「事態の改善」に向かって、初動段階でミスすることは許されないからである。周りの変化に気を配りながら、一歩一歩進むものである。自分の才能に自信がある人間は「一か八か」の賭はしない。ましてや、国家や国民を賭の対象にするような異常行動は取らないものである。
その最大の証拠は、彼等は「改革の失敗後」を決して語らないことにある。仮に「府が都に成った」として、そこで何を得るのか。成らなければ何を失うのか。成るでもなく、成らずでもなく、「中途半端な成り損ね」で終わった時、一体どれほどの損失を招くのか。それは府民が怠惰で、市民が妨害したからであって、「そんな連中は滅びればいい」というのが最後の言葉なのか。
大阪を賭の対象にするのは、まだいい。収拾がつかなくなれば国が乗り出すだけの話だ。しかし、日本を賭の対象にした場合、それを助けるものも組織も無いのである。断じて祖国をそうした状況に追い込まないというのが、本来の意味での国家観ではないのか。
忘れてはならない、民主主義を多数決の原理のみで強行すれば、最悪で「国民の49%が死ぬ」ということを、51%が生き残れば、それは肯定されるということを。国家を「観る」に際して、事前のリスク評価をしない「国家観」など、負け犬成金の「カジノ遊び」に過ぎぬのである。それをして「国家観」と呼ぶならば、政治家に「国家観」は不要である、と言わざるを得ないではないか。