教育勅語誕生秘話。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 










【消えた偉人・物語】鎮まった徳育論議。





 戦後教育における「消えた物語」の最たるものが、教育勅語(教育ニ関スル勅語)であることは間違いない。戦後70年を目前にして、今や教育勅語の内容を知る人はごく少数となっている。

 明治維新の急激な変革の中で、徳育(道徳教育)の理念と方法をどこに求めるべきかという論議(徳育論争)が錯綜(さくそう)した。「王政維新以来全ク公共ノ教トイフ者ナク、国民道徳ノ標準定マラズ、以テ今日ニ至レリ。独リ今日ニ至ルノミナラズ、此儘ニテ打棄テ置クトキハ猶日本国ノ道徳ノ標準定マラズシテ、此後何十年連続スルモ計リ難シ」。思想家、西村茂樹は、『日本道徳論』の中で当時の状況をこう描写した。

 また、東京大学綜理(総長)の加藤弘之は、徳育の方法としては、孔孟主義、西洋道徳哲学の主義、キリスト教の道徳を用いるべし、との種々の説が出されたが、特に定まった主義は確立していないと述べている(『徳育方法案』)。実際に、修身科の教授でも「徒に甲論乙駁(こうろんおつばく)際限なく、(中略)教師と生徒は中流に漂ふ舟の如く、其の向ふ可き方角に迷ひ、徳育は如何為すべきや、如何にして我が身を修む可きや、途方に暮れ」(能勢栄『徳育鎮定論』)ているという状況だったのである。

徳育問題は、明治23(1890)年2月の地方長官会議で取り上げられた。わが国固有の倫理の教えに基づいて徳育の主義を確立すること、などが内閣に建議され、天皇は「徳育の基礎となる箴言(しんげん)の編纂(へんさん)」(『学制八十年史』)を命じられた。

 教育勅語は、総理大臣、山県有朋(やまがた・ありとも)と文部大臣、芳川顕正(よしかわ・あきまさ)の責任のもとに、法制局長官の井上毅(こわし)が原案を作成し、これに枢密顧問官の元田永孚(ながざね)が協力することで起草が進められた。両者による真摯(しんし)な議論と何度かの修正を経て案文が整えられていくが、編纂にあたっては、特定の宗教、宗派に偏しないこと、哲学上の理論を避けること、「政治上の臭味を避け」、漢学にも洋学にも偏しないことなどが留意された。

 教育勅語は、明治23年10月30日に渙発(かんぱつ)された。教育勅語によって「徳育論争」の混乱は鎮静していった。また、修身科の教授も教育勅語の「聖意ヲ奉体」して行われることが明確にされた。教育勅語によって、近代日本の教育理念の礎が築かれたのである。


                         (武蔵野大学教授 貝塚茂樹)




草莽崛起:皇国ノ興廃此ノ一戦在リ各員一層奮励努力セヨ。 

       原案を作成した当時の法制局長官、井上毅(国会図書館のホームページから転載)