【土・日曜日に書く】論説委員・皿木喜久
◆紀元節は維新のモデル
『日本書紀』によれば、初代神武天皇は「辛酉(かのととり)年の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)」に橿原宮で即位した。西暦に直すと紀元前660年の2月11日に当たるとして、この2月11日が「紀元節」とされた。
といっても、さほど古いことではない。祝日としての「紀元節」が始まったのは明治6(1873)年のことだ。
その5年余り前の慶応3(1867)年12月、岩倉具視らが起草して「王政復古の大号令」が発せられる。その中で「諸事神武創業之始(はじめ)ニ原(もとづ)キ」と、神武天皇の建国をモデルとして、明治維新にあたることを宣言した。そこから「紀元節」が生まれたのである。
すんなりと「神武創業」が選ばれたわけではなかった。天智・天武期の「大化の改新」も候補となる。後醍醐天皇、楠木正成の「建武の中興」を推す意見もあった。しかしこれまでにない大胆な国づくりを目指し、国民の結束力を強めるには、思い切って神武天皇の時代にまで戻るべきだとなったのだという。
もっとも、『古事記』『日本書紀』とも神武天皇について記述するのは、ほとんどが日向から大和に向かったいわゆる「東征」についてである。具体的な建国の事業にはそれほど触れていない。
◆人々が一緒に住む家に
ただ推測ではあるが、『日本書紀』には、明治新政府の指導者たちをひきつけたに違いない考え方が出てくる。即位を前にしての天皇の令(のりごと)である。「民の利益になるなら、どんなことも妨げない」などとした後、こう述べる。
「六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)にせむこと、亦可(またよ)からずや」
国を一つにして都を開き、天地四方の人々が一緒に住む家のようにしよう。それはすばらしいことだ-という意味にとれる。
「八紘一宇」という四文字言葉となり、戦後は日本の植民地主義を育てたとして、批判の対象ともなった。しかしそれは、この言葉が利用されただけのことである。虚心坦懐(たんかい)に読めば、人々の「絆」を強調した気高い国づくりの理念をうたい上げている。
実際、明治政府がこの上古の建国理念をかかげたことは、日本国民の「絆」を強めるのに一役も二役も買った。その証拠に、日本と戦った米国がこの「紀元節」を忌み嫌った。
占領下の昭和23年、新たな祝日を制定するとき、国民へのアンケートで「紀元節」の復活を願う声は強かった。だがGHQ(連合国軍総司令部)は許さない。
その思想が日本を戦争にかりたてたというのは誤解だったが、日本人の団結力の源泉になってきたことは見抜いていたのだ。
◆強かった復活への願い
それでも日本国民の「紀元節」復活への願いは強く、自民党政府は、昭和32年から何回も祝日法改正案を国会に提出する。だが反対も根強く41年になってようやく成立、翌42年から「建国記念の日」と名を変え、実施された。
反対の理由は、紀元節が日本の軍国主義を生んだという米国同様の誤解と、『日本書紀』の記述には科学的根拠がないということだった。
だが後者については、戦前、天皇を中心とした歴史観に批判的だった歴史学者の津田左右吉が「歴史的事実はわからないが、建国の日は2月11日でかまわない」という論を展開したことで、反対の矛先は鈍っていった。
津田のような「進歩的」な学者でも、明治の教育を受けておれば「建国」を記念する日の必要性を強く感じていたのだ。
しかしそれから半世紀近くがたつのに、この2月11日を建国記念の日とした意義が国民の間に十分浸透しているとは言えない。
戦後の教育が神武天皇について何も教えてこなかった。さらに自民党時代も含め、政府自らが積極的に祝おうという姿勢を見せなかったからだ。ましてや、今の天皇陛下が何代にあたるかを官房長官が答えられなかったような民主党政権の関心は希薄である。
あの大震災以来、家族や地域、そして国民の間の「絆」の大切さが言われている。昨年の「今年の漢字」ともなった。その一方、例えば津波による膨大なガレキの受け入れ、処分を頑強に拒否する地域があるなど、「絆」のほころびも目立つ。
だが日本では「神武」の時代からそうした「絆」を国づくりの理念としてきた。そのことに気づいた明治維新期の人たちは、受け継ぐため「紀元節」を設けた。
大震災による未曽有の危機を乗り越えるため、現代の政府も国民も、もう一度そのことに気づきたい。そして虚心坦懐に今日の「建国記念の日」を祝いたいものだ。
(さらき よしひさ)