【土・日曜日に書く】論説委員・清湖口敏
「都民冥利に尽きる」とは。
正月の話を今ごろ持ち出すのも気がひけるが、2日の新年一般参賀の折にふと見かけた光景から、いろいろと考えさせられることがあった。坂下門を出ての帰り道で年配の女性数人が、売店で求めた皇室カレンダーかと思われる品を、それぞれ何本も手にしているのが目についた。
遠方から上京してきた人たちだろうか、帰って親類や近所に配るのだろうか、それにしても地方では経済的、時間的、体力的な事情からやむなく参賀を諦める人も多かろうに…などと想像しつつ、東京やその近辺に住む者の冥利(みょうり)をあらためて思った。東京はやはり「都」なのだ、と。
◆天皇のまします「都」
「都」といえば昨年、橋下徹大阪市長らが掲げる「大阪都」構想について、同市長選で橋下氏を応援した石原慎太郎東京都知事が「都は『キャピタル』。元首と国会がある所だ」として、「大阪都」の名称に難色を示した。
「大阪都」の実現には地方自治法などの改正が必要で、その論議が注目されるところだが、「都」の字に絞って論ずれば、わが国では古来「都」は「みやこ」と訓じて「皇居のある所」の意味で通用してきた。語源は「宮処(みやこ)」あるいは「宮所(みやどころ)」の略とされている。
明治の東京奠都(てんと)(遷都の発令がないまま新たに都が設けられた)までは京が都で、江戸幕府の勢威がいかに盛んであろうとも、そこに皇居がない限り江戸は都にはなれなかった。江戸期文化年間の随筆『萍(うきくさ)の跡』(立綱(りゅうこう)著)に「大御国にてみやこといふは、天皇のおましますところにかぎりたる称」と示す通りである。
徳川家は、天皇のいる都に絶大な価値を覚えていたとみえ、例えば徳川の菩提(ぼだい)寺である上野の寛永寺は、京の鬼門を守る比叡山にならって「東の比叡山」の意の「東叡山」を山号とした。東京ドームに隣接する徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)ゆかりの庭園、小石川後楽園の築山や泉水には、愛宕(あたご)坂、大堰(おおい)川、渡月橋…と、京都を模した名称が数多く使われている。
◆首都・東京を愛せるや
江戸の町民はといえば、徳川三百年の繁栄と幸福を享受してきたせいか、江戸から東京への改称には強い反発を見せたそうだ。明治への改元についても「上からは明治だなどといふけれど、治明(おさまるめい)と下からは読む」と皮肉った。
新政府への反感も強かったらしく、そこで政府は、東京市民の感情を和らげるとともに、「都」としての東京を強く印象づけるため、天皇から賜った御酒(ごしゅ)を東京市民に振る舞った。「天杯(天酒)頂戴」と呼ばれるもので、祭り好きの東京市民は家業も休んで酔いしれたという。
ただそれでも市民にはなかなか東京への愛が育たなかったようで、幸田露伴は明治32年に著した『一国の首都』において、東京が当初は薩長土肥という東京への「愛情なき有力の人士」の手で建設された事情に触れたうえで「首都たる東京に対して真摯(しんし)厳重なる意義においての愛情を有せりや、否や」「江戸児(えどっこ)が江戸を愛したる如(ごと)き、燃ゆるが如き意気熱情を以(もっ)て今の市民は我が東京を愛せるや、否や」と問い、東京を真の「首都」にせんがための愛情と自覚とを市民に促した。
さて、そんな声にくらべ、天皇のいる「皇都としての東京」に誇りをもとうというような声は、残念ながら東京人の間でさほど大きくは起きてこなかったように思われる。瞥見(べっけん)するところでは現在も状況は変わっておらず、「京都には長いこと天皇さんがいやはった」「今は臨時に東京へ行幸してはるだけ」と胸を張る京都人が少なくないのとは、際立って異なるような気がしてならない。
◆丸の内と東京駅
かつて上方から江戸に向かうのは「下る」と言った。今では東京に向かって「上る」と言い、鉄道の「上り、下り」も基点は東京駅だ。東京が首都というより皇都であることに拠(よ)る定義である。
その東京駅は現在、復元工事が大詰めを迎えている。丸の内口の駅舎の囲いも次々に外され、外壁や大きなドーム屋根の一部が姿を現した。今秋には大正3年の創建時の威容がよみがえる。
駅というのは大抵、繁華な側に向けて正面駅舎が建設されるものだが、東京駅の場合は、当時最大の繁華街だった日本橋や京橋の界隈(かいわい)に向けてではなく、野原同然だった丸の内側に立派な赤レンガの本屋を建てた。なぜか。丸の内側正面に皇居があるからである。
そうして東京駅は、威儀を正して皇居を拝しながら、こんにちまで東京の発展を支えてきた。東京駅のように皇居を間近に仰げることの喜びと誇り-。「都民冥利」とは、まさにそれをいうのではないかと私は思っている。
(せこぐち さとし)