戦後体制からの脱却-3 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







夕刻の備忘録 様のブログより。





昭和二十七年四月十日、NHKは『君の名は』の放送を開始した。

「忘却とは忘れ去ることなり。
忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

ラジオから流れるこのナレーションは、まさに一世を風靡し、漫才のネタにもなるほどであった。この番組のことを語る人は少なくなったが、「真知子巻き」なる言葉は今なお生きている。それをそうと知らずに、マフラーを巻いている人もいるかもしれない。

同年四月二十八日、サンフランシスコ講和条約発行。
即ち、なお占領下での番組開始であったことになる。

政府も機能し、天皇陛下も御退位されることはなく、戦前と戦後はあたかも連続的に繋がっているようにも思えた。主権は無くとも日本国は、「日本国のままであるか」の如く錯覚していた。それが「占領下」であることを、「一般の国民には忘れさせ」、そして資本家や支配層には「徹底的に分からせる」という占領軍の意図通りの進展であった。

そして、六十年目の春が来る。

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「戦後体制」について「忘却」を主題に書いている。

さらに遡れば、昭和二十二年五月三日・新憲法施行。
同年六月朝日新聞にて『青い山脈』の連載が開始される。

昭和二十四年、その主題歌は爆発的なヒットとなった。西条八十作詩、服部良一作曲になるこの歌、ある程度の年齢の方なら恐らくは懐メロの筆頭であろう。カラオケでの定番にしている人もいるだろう。しかし、その歌詞は何を意味しているか。特に、四番まである中で、その二番の歌詞は何を指しているのか。

 古い上衣よ さようなら
 さみしい夢よ さようなら
 青い山脈 バラ色雲へ
 あこがれの
 旅の乙女に 鳥も啼く

古い上衣とは何か。さみしい夢とは何か。戦前の「軍国主義」を呪い、旧体制を「古い上衣」に譬えて、それを脱ぎ捨てることで「明日への希望」を見出す、そう理解された。「男女席を同じうせず」を廃し、人間を鍛える場としての学校を否定して、楽しく暮らしていければ「それでいい」という考え方を、学生達の恋愛ゲームに託して広めた作品である。そして、恐らくは作者の意図を遙かに越える形で、この作品には摩訶不思議な「力」が与えられた。

当時からそう理解して、そのままプロパガンダに転用する勢力があった。勿論、占領軍の意図もあった。そんなこととは無関係に、面白い作品として楽しむ人がいた。そして、そのメッセージの中に潜む「毒」について指摘する人達を、「考えすぎだ」「取り越し苦労が過ぎる」「頭が固い」「作品として面白ければいいじゃないか」といって、全く取り合わなかった人達も多かった。今の捏造「××ブーム」なるものを批判して、デモ活動を行っている人達に向けて、「考えすぎだ」と冷笑している人達と状況は変わらない。真面目な警告は常に無視される運命にある。

過去を忘れ、過去を否定することが、「正義の証」とされた時代である。敗戦直後からこうした「政治工作」は続けられてきた。それが「辛いことは忘れたい」「忘れることが先決だ」という風潮により、一段と加速され、拡大していったのである。

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神戸や東北の震災でも分かるように、近隣地区に住まいされていても、実際に被災された方と、そうでない方がいる。それと同じように、最終的には内戦にまでは至らなかった状況では、親戚が徴兵され、学校では軍事教練が行われていても、確かに窮屈で暮らしにくくなったとは思っても、それを「大規模な経済不況」の一つ程度に認識している人もいたのである。個別に話を聞けば、必ずそんな人に出会える。親兄弟親戚を辿れば、「偶然とか」「運良く」とかいう言葉と共に、そうした話が聞けるはずだ。

戦時において、筆舌に尽くしがたい苦労をされた方を否定し、それを軽視するのではない。今も昔も、時の世界の標準から見て「日本が極めて自由な国であった」、その証拠を挙げたいだけの話である。しかし、この種の話がマスコミを通して拡がることはないのである。

何故なら、戦前が「自由な時代」であっては困る連中がいるからである。我が国には、我が国独自の民主主義もあり、表現の自由もあり、就職や恋愛の自由もあったことを、当時の世界の先進国との比較をして見ても、胸を張って誇り得る「一大文化国家」であったことを、知られては困る連中がいるからである。

誇るものを探すのに苦労して、必死で歴史を捏造する国家も哀れであるが、その反対に世界に誇れる文化を持ちながら、それが一切無かったかの如く「逆捏造」して、国家を侮辱し罵倒することが、さも良心的であるかの如くに振る舞い、そのことだけで地位を上げていく連中がいる国家もまた悲劇的である。

「廃墟に殿堂が建って居た」かの如き嘘を吐くのも無残なら、「殿堂は廃墟であった」かの如く偽るのもまた無残である。このままでは、「歴史を捏造・逆捏造する国家」として比較の対象になってしまう。

実際、「捏造」と「逆捏造」は仲が良い。お互いに都合がよいからである。利害が一致するからである。今日も今日とて、総理大臣が答弁中に「ある仕草で水を飲んだ」、すると議場から拍手が湧き上がった。それが何を意味するか、分かる人には分かる話である。本人の真贋はさておいて、日頃の交際範囲がよく分かる話である。

捏造に媚び、逆捏造に励む、それが今の政府なのだ。
事勿れ主義が極まると、亡国にまで至る。
戦後体制とは、忘れることに始まり、捏造に終わる。
嘘の拡大再生産こそが、その本質なのである。