国中連公麻呂の抜擢。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【決断の日本史】745年4月25日





大仏造った「天平のミケランジェロ」

 東大寺の大仏を見たことがない日本人は、まずいないだろう。しかし約1300年前、大仏の造立事業を実際に指揮した仏師の名前となると、ほとんどの人は答えられまい。

 国中連公麻呂(くになかのむらじ・きみまろ)(?~774年)という。祖父は朝鮮南西部にあった百済の官人だったが、国が滅んだため「白村江の戦い」(663年)を機に日本へ亡命してきた。公麻呂は渡来系の血筋ならではの先進技術、とりわけ仏像制作の知識を持っていた。

 天平17(745)年4月25日、公麻呂の名前が初めて正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に現れる。位階が正七位下でしかなかったのが、一足飛びに外従五位下を授けられた。理由は書かれていないが、この年8月には、平城京で聖武天皇の発願により大仏の鋳造が開始される。一大事業のための、異例の抜擢(ばってき)という見方ができる。

 翌天平18(746)年11月の「正倉院文書」には、彼が東大寺の前身である金光明寺(こんこうみょうじ)の造仏(ぞうぶつ)長官に任命された記述がある。三月堂の本尊としていまに伝わる不空羂索(ふくうけんざく)観音立像(国宝)は、彼の作品と考えられている。

天平20(748)年前後には、本格化する大仏造立を担当するための「造(ぞう)東大寺司(し)」と呼ばれる役所が作られた。仏像だけでなく、建物や瓦、伊賀国での材木の切り出しまで膨大なスタッフを抱える組織だった。

 彼は造仏所を中心に働き、天平宝字(ほうじ)5(761)年から天平神護(じんご)3(767)年までの6年間は、ナンバー2にあたる次官をつとめている。期待に応えて立派に事業を成し遂げたのだろう、位階も従四位下まで上った。

 美術史家の田中英道・東北大学名誉教授は彼の業績に着目し「天平のミケランジェロ」と称(たた)えた。華やかな天平文化を実質的に支えた、偉大な芸術家といっていいだろう。


                                     (渡部裕明)