「古事記」のおもしろさ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【土・日曜日に書く】論説委員・福島敏雄





退けられた「偽書」説


 和銅5(712)年1月28日は、暦法の違いを考慮せずにいえば、いまからちょうど1300年まえにあたる。この日、ときの元明天皇に上中下3巻の書物が献上された。「古事記」である。献上したのは、「正五位勲五等太朝臣安萬侶(おほのあそみ・やすまろ)」であった。

 以上は、古事記の序文に基づいている。岩波文庫版には、「現存するわが国最古の歴史書・文学書」という惹句(じゃっく)が書かれている。だが残念ながら、古事記は歴史書でも文学書でもない。

 古事記が不思議なのは、ほぼ同時期に、天武天皇の詔(みことのり)によって、正史である「日本書紀」が編纂(へんさん)されていたことだ。このため古来、偽書説がつきまとった。

 江戸後期の国学者、本居宣長が畢生(ひっせい)の大著『古事記伝』を書くまでは、ほとんど埋もれた書物でもあった。現在では、奈良前期まで残っていた上代特殊仮名遣いの音韻の研究によって、偽書説はほぼしりぞけられた。

 それでも「太安萬侶」が書いたとされる「序文」だけは、後世の「偽文」だとする、有力な説がある。国家的な編纂事業にもかかわらず、「釈日本紀(しゃくにほんぎ)」など後世の史書に、古事記のことが触れられていないからだ。

 歴史とは、つねに「勝者の歴史」である。勝者によって書かれ、敗者はつねに脇役でしかない。とりわけ古代史ともなると、改変・改竄(かいざん)がなされ、敗者はときとして闇の底に沈められる。

 だが古事記はどう読み込んでも、勝者が書いたとは思えない。つまり歴史書としての資格に欠けているのだ。

たとえば、古事記では敗者である出雲の神々のくだりが、かなり詳細に描かれている。天皇の権力が掌握される以前に、出雲にはオホクニヌシを中心にして強大な王国が築かれていた。逆に書紀は出雲に対して、いやに冷淡な扱いに終始している。

 有名なヤマトタケルも、書紀では天皇の命にたいし、唯々諾々と従っている。古事記では、クマソ征伐から帰還した直後、さらに東征を命じられ、「天皇既に吾(あれ)死ねと思ほす所以(ゆゑ)か」と嘆く。書紀とは、好対照である。

 残虐な専制王とされた雄略天皇も葛城の神に対しては、「恐し、我が大神」とかしこみ、部下たちの着ていた衣服や太刀、弓矢をたてまつってしまう。書紀の雄略とは別人のようだ。


「清らかなる正実」


 文学書ではない理由は、簡単だ。日本には明治20年代を濫觴(らんしょう)とする「近代文学」以前に、「文学」などというものは存在しなかった。

 歴史書でも文学書でもない古事記は、「平家物語」や「太平記」と同じ構造を持った、語り物(ナラティブ)なのである。

 国学者、折口信夫によれば、「語り」とは「騙(かた)り」でもある。「騙取(へんしゅ)」というコトバがあるように、相手の心を引きつけ、だますように物語の世界に取りこんでしまうことを目的としているのが「語り=騙り」である。

 「序文」を信ずれば、記憶力バツグンの28歳の舎人、稗田阿礼(ひえだの・あれ)が語り、安萬侶がもっぱら音読みで書き取った。その書記法に魅せられたのが宣長である。『古事記伝』には、こう書かれている。

「すべて意も事も、言を以て伝フるものなれば、書(フミ)はその記せる言辞(コトバ)ぞ主(ムネ)には有ける」

 上代においては、言辞には言霊がこもっていた。記されたまま、そのまま信じて朗読しなさい、そうすれば、「上ツ代の清らかなる正実(マコト)」がありありと浮かんできますよ、と言いたかったはずだ。

 だから宣長は、書紀には手厳しい。「彼(書紀)はもはら漢(から)に似るを旨として、其文章(あや)をかざ」っている。中国渡来の史書に基づく「漢意(からごころ)」で書かれているからダメだと決めつけた。

 宣長にとって、勝者が中心の「歴史書」などは問題ではなかったのである。


「タイアンマンロ」って誰


 昭和54年1月、奈良市内の茶畑から「太朝臣安萬侶」と刻まれた墓誌と墓が見つかった。新聞の1面に大見出しが躍ったが、後輩の記者に「タイアンマンロって、誰ですか」と訊(き)かれ、目をむくほど驚かされた。

 この記者は、記紀など読んだことも、教えられたこともないとつけくわえた。戦後の民主主義教育は、日本の神話を極端に忌避した。だがとりわけ古事記の神話は、ヤマトタケルの「語り」もふくめ、ギリシャ神話よりも、はるかにおもしろい。

 現代語訳だけでなく、マンガ本も出ている。若い人たちは当時の日本人が、いかに「清らかなる正実」を語りつごうとしたのか、その片鱗(へんりん)を味わってほしい。


(ふくしま としお)