平成6(1994)年に『週刊朝日』誌上で行われた台湾の李登輝総統(当時)と司馬遼太郎の対談は、台湾で大きな反響を呼んだ。中国政府に与えた衝撃はもっと大きかった。
▼「台湾人に生まれた悲哀」と題された対談のなかで、江沢民主席(当時)が特に問題にしたのは、李氏が旧約聖書の「出エジプト記」を話題にした部分だったという。エジプトで苦難にあえぐユダヤ人を預言者モーゼが連れ出し、約束の地に導くという物語である。
▼中国政府は、台湾独立への決意表明と解釈したようだ。ただし「約束の地」を自由と民主主義が保障された社会を指す、との見方もある。李氏は対談から2年後、台湾はもちろん中国数千年の歴史で初めての、民意で選ばれた最高指導者となった。
▼以来5回目の直接選挙となる総統選では、李氏が推した民進党の蔡英文主席は、あと一歩で及ばなかった。再選された中国国民党の馬英九総統のもとで、台湾の中国化が一段と進むのか。国際社会の関心はますます高まりそうだ。
▼中国は96年の総統選前には、大規模なミサイル演習を行って、台湾の有権者を威嚇した。今回はそんな暴挙には出なかったものの、中国でビジネスを行う台湾企業に圧力をかけるなど、水面下での干渉は公然の秘密だった。台湾の民主化を主導してきた李氏は、「約束の地」への道程の厳しさを改めてかみしめているのかもしれない。
▼それでも「台湾人」は、多くの中国人が自分たちの選挙を羨望の目で見ているのを知っており、誇りに思っているはずだ。中国政府が恐れているのは、台湾独立派の政権奪取よりむしろ、「中国人に生まれた悲哀」に人々が気づき始めることではないか。