『闘戦経』に見出す日本人の「戦い」の精神。
2012.01.11(水)桜林 美佐:プロフィール
新しい年を迎えるにあたり、居住まいを正す意味で今回は少し趣向を変えて書いてみたい。
JBpressのこの国防欄 では防衛省・自衛隊OBの方々などが名を連ねており、その中で私のような者が偉そうに国防論を語るのは僭越至極である。そのため、なるべく私自身の経験をもとにしたリポートとしての執筆を心がけてきた。
伝えたいことは次々に出てくるのだが、ここで、あえて少し立ち止まってみようと思い至った。
「今」を犠牲にして戦ってきた日本人
いくら日本が大変だ、危機が迫っていると書いても、「なぜ、今それが問題なのか」が理解されなければ、この情報発信は全くの徒労である。わが国のお粗末な内情を明らかにするという意味では利敵行為とも言え、かえって国益を損ねかねない。
いや、そんなことを言ったら始まらない、一部の読者が共感してくれていればいいではないか、という言葉には慰められ励まされてもいるが、それでもなお漠然とした不安は拭えない。
それは、かく言う私自身が、国防を強化させることは「国民の安全・安心につながる」という言葉を使って説明していることが常で、実はこれは極めて単純化した言い方であるという反省もあるからだ。
この説明は、突き詰めて言えば、今、生きている人々が犠牲を払うことすらもあり得るという前提の上に立っている。
つまり、「国家を防衛するためには戦争が起こることもある」→「その際は多数の犠牲も余儀なくされる」→「国民の安全は損なわれる」→「しかし、その試練を乗り越えれば、結果的に国民の安全・安心を得られるかもしれない」という大きなタイムラグが前提となっている。
いくら国防のためだからと言って、現代人の国民の生命・財産が損なわれるなどというのは本末転倒であり、意味がないと批判されるのは避けられないだろう。
だが、歴史を振り返ってみれば、「今の犠牲」を払ってまでも、過去の日本人は戦いを選ぶ場面があった。
先の大戦では、圧倒的な物量の差などから敗戦へ突き進むことを分かっていながらも、「今の犠牲」を厭わず、最後まで奮戦した日本人がいた。
その戦いぶりは大いなる脅威となり、敵国から賞賛されることもあった。大東亜戦争中の拉孟(らもう)守備隊に対して、敵軍の蒋介石が「逆感状」で「日本軍を模範にせよ」と日本軍を称えたことは有名である。
なぜ、日本人は「今」を犠牲にしてまでも戦ってきたのか。そして、敵将の心を動かしてしまうほどの日本人精神とはどこから来ているのか。
孫氏の兵法と対極の位置にある「闘戦経」
そんなことを考えていたこの年明け、1冊の本と出合った。元陸上自衛官で現在は日本兵法研究会会長の家村和幸氏による『闘戦経 ―武士道精神の原点を読み解く― 』(並木書房)である。
「闘戦経」(とうせんきょう)とは、今から約900年前の平安時代に大江匡房(おおえまさふさ)卿によって記された日本最古の兵法書だという。
日本の武人の「バイブル」(そぐわない言葉だが)は「武士道」だというイメージがある。だが、これは江戸の太平の世、つまり戦のない時代に、戦を職業とする武士たちに向けて気高い精神を維持する必要性を説くために、「闘戦経」をベースに作られたものだと家村氏は言う。
戦争について学ぶ場合、多くは孫子の「兵法」やクラウゼヴィッツの「戦争論」などをひもとくことだろう。しかし、家村氏は「戦争論」については、「人間の内心的な部分などについては言い尽くせぬところも多々ある」とし、戦争の単純な理論化が結果的に2度の世界大戦につながった可能性を示唆している。
そして孫子については、権謀術数を奨励して偽り騙す思想であるとして、日本古来の「闘戦経」とは対極にあると位置づけている。
ちなみに、孫子についてはこの「戦わずして勝つ」点を取り上げて、平和追求の理念を現しているという評価もある。軍事力の行使は最後の最後の手段であるべしと主張しているから、儒教的理想主義であるという指摘だ。
だが、いずれにしても、西欧のものも大陸のものも、確かに日本人にはなかなか馴染まない教えが散見される。
例えば孫子は「君命に受けざるところあり」と言い、たとえ君命でもそれによって敗れることが確実ならば従う必要がないとしている。
しかし、日本では命令に背くというのは抵抗感がある。むしろ忠義を重んじたことから、敗れると分かっていても命令に従い、従容として死に就いた事例は歴史上の様々な戦に見受けられる。例えば悪しきシビリアンコントロールの実害と言われる「湊川の戦い」における楠正成などは象徴的だ(楠正成は、敗れることが明白であるにもかかわらず、天皇への忠義を果たすために足利軍と戦った)。
東日本大震災で日本人が取り戻したもの
それこれ考えると、「今」を犠牲にしてまでも大切なものを守り抜こうという精神、権謀術数に頼らず正々堂々と戦いを挑む姿勢など、やはり、この「闘戦経」は日本人ならではの戦いの理念であり、同時に生き方の指南書と言えるのではないだろうか。
そして、国防について広く国民の理解を得るためには、こうした教養を置き去りにして語ってはならないと、原点に返る必要性も感じる次第だ。
それには長い時間がかかるが、日本人の潜在意識を信じ、眠れる日本人に本来の精神を取り戻してもらう「目覚まし時計」になり得るような文筆活動をしたいと思う。
さて、家村氏は警告する。「人心が悪くなれば、天地自然も悪くなり災難をもたらす」と。昨年の東日本大震災で、日本人は失われていた心や精神に、我知らず覚醒した。それは、例えば同胞を大事にする気持ち、他者を助ける気持ち、祖国という概念などである。その中には「皇室を敬う心」も含まれるだろう。
国の真ん中にあるものは何か。それに日本人1人ひとりが気付けば、それは国体を明らかにすることにもなる。「なぜ国を守らねばならないのか」という答えは、このような経験と思考を経て日本人それぞれが自ずと出さねばならないと年頭にあたり感じたところである。