夕刻の備忘録 様のブログより。
民主党が遂に本格的に「国家解体」に乗り出してきた。二年半前の選挙の際に、皇室の問題を云々すると、必ず「取り越し苦労だ」とか、「悪質な情報操作だ」とか、「謂われ無き誹謗中傷だ」とか言って、本質を隠そうとする人達が居た。
そうだ、「隠すべき本質」があったのだ。取り越し苦労でも、操作でも中傷でもなく、今目の前で行われていること、これから行われようとしていることを、冷静に考えて欲しい。これが「国家解体」でなくて何なのだ。自然国家たる日本国において、その中心核は何なのか。そこに手を出す人間の「真の目的」は何なのか。論じるまでもないではないか。
★ ★ ★ ★ ★
「保守」という言葉は実に便利に使われている。
従って、なるべくなら使いたくない言葉である。
しかし、広く使われている以上は、それをもって語らざるを得ない。その結果、「保守」とは何か。それは何を意味するのか、そこから話を始めざるを得なくなる。言葉の定義を問題にしなければならなくなる。今や共産・社民まで「保守」を語る時代なのだ。
「偽装保守」「似非保守」なる言葉も使われているが、そうなると対抗上「真の保守」なる珍妙な用語まで生み出さねば、バランスが取れなくなる。そうした隙を突いて、今の首相はのしあがった。「民主党保守派」という立ち位置を確保して、政界遊泳術も巧みに、今の座を掠め取ったのである。
頭の中には「リゾ・ラバ」と「水中花」の歌詞しか浮かんでこない。何もかも「全部嘘」だった。「夏の選挙は幻」だったのである。そして
♪あれも保守、これも保守、たぶん保守、きっと保守♪
なのである。言葉が穢れるとは、こういう状況を指すのである。
★ ★ ★ ★ ★
保守の論点なら幾らでもあるが、ここでは一つに絞ってみよう。
保守とは何か。それは「生者よりも死者を重んじる精神」である。
この逆が革命思想である。過去に居たどんな立派な人よりも、今ここに生きている人間の方が価値が高い。歴史上の聖者よりも、目の前の犯罪者をも高く見る思想、それが彼等の根本にある。まさにその逆が「保守」なのだ。
その結果、何が生まれるか。宗教上の発想に因らずに、「死ねば終わり」という考え方から脱することが出来る。生と死が連続した一つのものになる。生前の徳はなおさら評価されるようになる。「歴史に学び、伝統を重んじ」とよく言われ、書かれ、そして実際こうして書きもしているが、その根本は、死者への敬意に基づくものである。その「揺るぎなき存在」に根を置くものである。
それは今の時代を作ったのは我々ではなく、既にこの世から消えて、思い出の中にしか存在しない、いや思い出されることも無い人達の、まさに命懸けの行為の御蔭であることを、心の底から感じることである。そのバトンを引き継いだ、我々は単にそれを次代に渡す為の中間走者に過ぎないことを知ることである。
神州不滅か壊滅か。
それは全て、今を生きる我々に掛かっている。
バトンは我々の手の中にある。
これまで日本国民が、一体どれほどの国民が、日本国を日本国であらしめる為に、命を捧げてきたか。有名無名を問わず、報われても報われなくても、たとえ路傍で朽ちても、誰一人弔う者すら居なくても、自らの信念に従って、この国を護る為に生涯を捧げてきた。そのことを知るべきである。
日本国は決して不滅ではない。
不滅の存在として天から授かったものではない。
それを不滅にしたのは過去に生きた無名の戦士達である。
なお不滅にするのは、引き継いだ我々の責務である。
座して待っていれば、不滅の称号が与えられるわけではない。
「壊滅」を目指す、それを目論む勢力が目の前に居るのである。
民主主義政体の中で、言論の自由の中で、皇室に対して様々な策謀を巡らす者達を、それを理由に処断することは出来ない。しかし、一点だけ譲れない、絶対に譲れない論点がある。それは民主主義ならではの論点である。
皇室廃絶を目指す諸君に申し上げる。
多数決で決めようではないか。
過去に生きた全ての日本人が有権者である。
歴史の総体としての多数決を主張する。
「死人に投票権は無い」と冷静ぶりたいなら、それも結構だ。
ならば、今後二千七百年間、アンケート調査を続けたまえ。
西暦五千年頃、また何処かで逢おうではないか。
是非とも、その結果を教えてくれたまえ。
それが出来ないというのなら、諸君に民主主義を語る資格はない。今の国民に、今の日本人に限って投票権を与え、今の尺度で過去を断罪し、如何なる人間も生きて居るから、生きているだけで値打ちがある、などと嘯く諸君には理解出来ないだろうが、それが日本という国の国柄なのだ。
革命は所詮はその国柄に沿って行われる。人間には寿命がある、それを最大限に悪用して、静かに確実に事を為そうと目論んでいる。「自称日本型」の静かな革命でも目指しているのだろうが、そうはいかないのである。
民主党が皇室典範に手を着け、国家解体に乗り出すなら、今後の二千七百年間、それを続けるだけの「根気」があることを先ず示せ。「日本に手を掛ける」とはそういうことだと思い知れ。宮家問題の遙か以前の段階で、彼等がこの問題に手を出すことに反対する。いやこの問題に口を挟み、語ることさえ断固反対する。
彼等が「静かな革命」を目指すのであれば、こちらも静かに「血の雨を降らす」までである。テロや暴力ではない、「本物の血」を、我々の血を持ってこれに反対するまでである。今後の二千七百年間、反対をし続けるだけの話である。
それは可能か?
それは言葉によってのみ可能になる。
だからこそ語るべきなのだ。
歴史の証言、その刻印として大いに語れ!
血をもって涙に代え、涙の中で祖国を憂い、祖国を護れ!
この身体朽ち果てても、命燃え尽きても、彼等の野望を粉砕する。その精神こそが保守なのだ。そう信じ、そう語り、そう行動する人達が一人でも増えていくことを切に切に願うものである。
そうだ、「隠すべき本質」があったのだ。取り越し苦労でも、操作でも中傷でもなく、今目の前で行われていること、これから行われようとしていることを、冷静に考えて欲しい。これが「国家解体」でなくて何なのだ。自然国家たる日本国において、その中心核は何なのか。そこに手を出す人間の「真の目的」は何なのか。論じるまでもないではないか。
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「保守」という言葉は実に便利に使われている。
従って、なるべくなら使いたくない言葉である。
しかし、広く使われている以上は、それをもって語らざるを得ない。その結果、「保守」とは何か。それは何を意味するのか、そこから話を始めざるを得なくなる。言葉の定義を問題にしなければならなくなる。今や共産・社民まで「保守」を語る時代なのだ。
「偽装保守」「似非保守」なる言葉も使われているが、そうなると対抗上「真の保守」なる珍妙な用語まで生み出さねば、バランスが取れなくなる。そうした隙を突いて、今の首相はのしあがった。「民主党保守派」という立ち位置を確保して、政界遊泳術も巧みに、今の座を掠め取ったのである。
頭の中には「リゾ・ラバ」と「水中花」の歌詞しか浮かんでこない。何もかも「全部嘘」だった。「夏の選挙は幻」だったのである。そして
♪あれも保守、これも保守、たぶん保守、きっと保守♪
なのである。言葉が穢れるとは、こういう状況を指すのである。
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保守の論点なら幾らでもあるが、ここでは一つに絞ってみよう。
保守とは何か。それは「生者よりも死者を重んじる精神」である。
この逆が革命思想である。過去に居たどんな立派な人よりも、今ここに生きている人間の方が価値が高い。歴史上の聖者よりも、目の前の犯罪者をも高く見る思想、それが彼等の根本にある。まさにその逆が「保守」なのだ。
その結果、何が生まれるか。宗教上の発想に因らずに、「死ねば終わり」という考え方から脱することが出来る。生と死が連続した一つのものになる。生前の徳はなおさら評価されるようになる。「歴史に学び、伝統を重んじ」とよく言われ、書かれ、そして実際こうして書きもしているが、その根本は、死者への敬意に基づくものである。その「揺るぎなき存在」に根を置くものである。
それは今の時代を作ったのは我々ではなく、既にこの世から消えて、思い出の中にしか存在しない、いや思い出されることも無い人達の、まさに命懸けの行為の御蔭であることを、心の底から感じることである。そのバトンを引き継いだ、我々は単にそれを次代に渡す為の中間走者に過ぎないことを知ることである。
神州不滅か壊滅か。
それは全て、今を生きる我々に掛かっている。
バトンは我々の手の中にある。
これまで日本国民が、一体どれほどの国民が、日本国を日本国であらしめる為に、命を捧げてきたか。有名無名を問わず、報われても報われなくても、たとえ路傍で朽ちても、誰一人弔う者すら居なくても、自らの信念に従って、この国を護る為に生涯を捧げてきた。そのことを知るべきである。
日本国は決して不滅ではない。
不滅の存在として天から授かったものではない。
それを不滅にしたのは過去に生きた無名の戦士達である。
なお不滅にするのは、引き継いだ我々の責務である。
座して待っていれば、不滅の称号が与えられるわけではない。
「壊滅」を目指す、それを目論む勢力が目の前に居るのである。
民主主義政体の中で、言論の自由の中で、皇室に対して様々な策謀を巡らす者達を、それを理由に処断することは出来ない。しかし、一点だけ譲れない、絶対に譲れない論点がある。それは民主主義ならではの論点である。
皇室廃絶を目指す諸君に申し上げる。
多数決で決めようではないか。
過去に生きた全ての日本人が有権者である。
歴史の総体としての多数決を主張する。
「死人に投票権は無い」と冷静ぶりたいなら、それも結構だ。
ならば、今後二千七百年間、アンケート調査を続けたまえ。
西暦五千年頃、また何処かで逢おうではないか。
是非とも、その結果を教えてくれたまえ。
それが出来ないというのなら、諸君に民主主義を語る資格はない。今の国民に、今の日本人に限って投票権を与え、今の尺度で過去を断罪し、如何なる人間も生きて居るから、生きているだけで値打ちがある、などと嘯く諸君には理解出来ないだろうが、それが日本という国の国柄なのだ。
革命は所詮はその国柄に沿って行われる。人間には寿命がある、それを最大限に悪用して、静かに確実に事を為そうと目論んでいる。「自称日本型」の静かな革命でも目指しているのだろうが、そうはいかないのである。
民主党が皇室典範に手を着け、国家解体に乗り出すなら、今後の二千七百年間、それを続けるだけの「根気」があることを先ず示せ。「日本に手を掛ける」とはそういうことだと思い知れ。宮家問題の遙か以前の段階で、彼等がこの問題に手を出すことに反対する。いやこの問題に口を挟み、語ることさえ断固反対する。
彼等が「静かな革命」を目指すのであれば、こちらも静かに「血の雨を降らす」までである。テロや暴力ではない、「本物の血」を、我々の血を持ってこれに反対するまでである。今後の二千七百年間、反対をし続けるだけの話である。
それは可能か?
それは言葉によってのみ可能になる。
だからこそ語るべきなのだ。
歴史の証言、その刻印として大いに語れ!
血をもって涙に代え、涙の中で祖国を憂い、祖国を護れ!
この身体朽ち果てても、命燃え尽きても、彼等の野望を粉砕する。その精神こそが保守なのだ。そう信じ、そう語り、そう行動する人達が一人でも増えていくことを切に切に願うものである。