マニフェストの病を断て。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【一筆多論】安藤慶太




昨年末、政府は来年度予算案に群馬県の八ツ場(やんば)ダム本体工事建設費など56億円を計上し、工事再開を決めた。政権交代直後、前原誠司国交相(現民主党政調会長)が党のマニフェスト(政権公約)に従って中止を表明したのだが、地元自治体や住民の反感や批判が一斉に噴き出したダムである。

 「どう言い繕っても、国民との約束を破る背信行為だ」

 民主党内からは公約違反にこうした批判が出た。子ども手当や高速道路無料化などの公約の撤回が相次ぐ形にもなった。離党者も出た。「政権交代の意義は完全に失われた」との批判も耳にした。

 批判はどれも、もっともではあるのだが、果たしてそういう総括でいいのだろうか。むしろ、必要なのは「マニフェスト政治」なるものがいかにインチキでいかがわしいか、というそもそもの反省ではないか。

 公約実現がボロボロに終わったことに目が向けられるが、実現できない空手形、できもしない夢物語をなぜ公約に盛り込んだのか、実行すれば直ちに別の弊害が出てくる類いの大風呂敷をなぜ広げたのかということが大事だ。選挙のたびに繰り返される愚かな光景こそ、見直されるべきなのだ。

 マニフェストに盛り込まれる項目は、関心を引くために有権者に甘い文言となりがちだ。義務よりは権利、負担よりは給付、地道な政策よりはアドバルーンのごとき、目立つ政策に流れやすい。

なるほど社会には、さまざまな無駄、矛盾、問題を抱えた制度や政策が至る所にある。しかし大抵の制度は、それなりの公益の一端を担うべく存在している。そのことはなかなかわからない。稚拙な一刀両断で「無駄」「廃止」「縮小」「見直し」と葬り、予想外の新たな問題や別の代償を負わされる事態も、本来ならば、事前に細かく見通す責任があったはずだ。

 子ども手当や高校無償化の予算編成がそうだった。財源捻出のため、耐用年数の過ぎた学校施設の建て替え予算にしわ寄せが及び、学校耐震化予算に回せなくなる事態が発生した。米軍普天間飛行場の移設も然(しか)りだ。時間をかけてできた国と国との取り決めが、公約だからと瞬時に覆された。このことがもたらした代償は計り知れない。

 公共事業削減の場として注目を集めた事業仕分けも、科学技術への政権側の無理解が目立ち、批判を浴びた。来年度予算は、国債発行が税収を超えるほどに膨らみ、財務相が「国債依存の予算編成は限界に達しつつある」と憂慮している。

 「マニフェスト政治」が抱える病について「野党の公約はどうしても机上の空論になる」という方便があるが、それなら願望を公約と偽って国民に提示すべきではない。マニフェストが大衆迎合、テレポリティックス(テレビを利用した政治)、劇場型政治の小道具と化すなかで、有権者は国民の顔色を窺(うかが)う政治家の甘く軽い言葉に惑わされず賢明な判断ができるか。これまた気がかりである。


                                     (論説委員)