旧皇族復帰の検討も必須だ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 









【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂




◆女性宮家でヒアリング

 天皇陛下は2日の新年一般参賀で、東日本大震災の被災者を気遣い復興を願うお言葉を述べられた。皇后さまは足首を捻挫しながら5回お出ましになった。天皇陛下は昨年11月、肺炎で東大病院に入院されたが、体調を回復したご様子だった。両陛下のご健康は国民の等しく願うところだ。ご公務の負担軽減策が急がれる。

 現行の皇室典範では、女性皇族が結婚されると、皇籍を離脱しなければならず、陛下の孫の代で唯一、皇位継承権を持つ悠仁さまの代の宮家が1つだけになってしまう懸念がある。皇族の減少防止は喫緊の課題といえる。

 そのための「女性宮家」創設に関する識者からのヒアリングが来月から始まる。女性宮家は、女性皇族が結婚しても、皇族の身分を維持できるようにする制度だ。野田佳彦政権は、この問題を皇位継承問題と切り離して検討する意向のようだ。しかし、この2つの問題は決して無関係ではない。

 平成17年、小泉純一郎元首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、これらの問題を議論し、「女性・女系天皇容認」「男女を問わず長子優先の皇位継承」「女性宮家創設」を骨子とする最終報告を示した。

 だが、これは男系で維持されてきた日本の皇統の歴史を根底から否定するものだった。女性宮家創設が安易な女系天皇容認論につながることがないよう、国民は厳しく監視すべきだ。

 ◆GHQの方針で皇籍離脱

 皇室の裾野を広げるためには、旧皇族の皇籍復帰も併せて検討する必要がある。

 昭和22年10月、秩父、高松、三笠の3直宮家を除く伏見、山階、久邇、賀陽、朝香、東久邇、北白川、竹田、閑院、東伏見、梨本の11宮家が皇籍を離脱した。

 GHQ(連合国軍総司令部)は皇室を財閥の一種とみなし、皇室財産を国庫に帰属させるなど徹底的な封じ込めを図った。皇族の共倒れを防ぐため、やむを得ず行われた皇籍離脱だった。

 昭和23年に作成された「皇室に関する諸制度の民主化」と題する外務省秘密文書が、その間の事情を詳しく物語っている。

 「財産上の特権が剥奪され、財産税が徴収せられ、且(か)つ皇族費は国費として計上されるとしても各皇族が品位を保たれるに充分な国家支出をなすことは困難と考えられ、皇族方を救う一つの道は臣籍降下(皇籍離脱)である」

 秘密文書は、日本側がGHQに抵抗した経緯も記している。

 「十一宮家は故伏見宮邦家親王から出ている…現皇室からは相当離れた家柄である」としながら、「明治天皇の皇女、四方(4人)が夫々(それぞれ)、竹田、北白川、朝香、東久邇各宮に嫁しておられる」として、この4宮家を残そうとしたことがうかがえるが、日本側の要望は入れられなかったようだ。

 11宮家には、一時金が支給されたものの、生活は苦難を強いられた。香水の製造販売に乗り出したり、新興宗教の教祖になった元宮さまもいたが、事業に失敗したケースが多い。跡継ぎに恵まれず絶えた家もあるが、多くは民間会社や団体の役員などを務め、家を維持している。

 旧皇族・竹田家出身の作家、竹田恒泰氏によると、男系の血を引く未婚の男性は、久邇、竹田、東久邇、賀陽の4家に9人いるという。皇室と旧皇族は今も、「菊栄親睦会」などの定期的な会合を通じ、交流が続いている。

 江戸時代にも皇統断絶の危機があった。病気がちの後桃園天皇は22歳で崩御した。天皇には欣子(よしこ)内親王しか子がなく、急遽(きゅうきょ)、東山天皇の男系の血を引く閑院宮家から祐宮(さちのみや)を養子に迎えた。祐宮は8歳で天皇(光格天皇)に即位し、欣子内親王はその皇后になった。

 閑院宮家は、新井白石の進言により、後の男系皇位継承に備えるために創設された宮家である。先人たちは男系維持のため、さまざまな知恵を絞ってきた。

 ◆皇族の意見も聴くべきだ

 三笠宮家の長男、寛仁さまは平成18年、月刊誌などで、女性・女系天皇を容認した有識者会議の結論を「拙速」と批判し、旧皇族の皇籍復帰を主張された。

 これに対し、羽毛田信吾宮内庁長官は「皇室の方々が発言を控えていただくのが妥当」と述べた。朝日新聞は2月2日付社説「発言はもう控えては」で、「寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか」と書いた。

 言論封じを二度と繰り返してはならない。野田政権は皇族のご意見も聴くべきだ。有識者会議の結論を白紙に戻したうえで、女性宮家の問題に絞らず、皇統の歴史を踏まえた幅広い議論を求めたい。


(いしかわ みずほ)